僕とラジオの付き合いは、小学生の頃からでした。いつからつきあい始めたのか知りませんが、小学生のときにはもう聞いていました。いや、それよりちょっと前からかな。
幼稚園の頃でしょうか。家に帰ると、カルビーのポテトチップスの時報で3時が知らせられ、子供電話相談室の時間でした。日課。まさに日課。疑問を差し挟む余地なき日々でした。
小学校にはいるとこれがちょっと変わります。幼稚園のときは近所の「純ちゃん」といっしょにタクシーで幼稚園に行ったのですが、小学生になったらお兄ちゃんですから、歩いて通うのです。始業は8時半。集団登校はたしか7時20分集合だったかな。NHK第一のニュースは7時15分を知らせてくれたのです。だから、それを聞いて、母に家から追い出されていました。6年間。「7時15分です。エヌ、エイチ、ケイ」。
正直言うと、それからラジオは空気だったのです。学校が終わってからは遊びに行ったりテレビを見たりで、ラジオとの関わりは出かける寸前の朝食の時間だけ。時報にはなっていましたが、聴いているのではなく、聞こえているだけでした。1人で朝の支度をする人には、ラジオはオススメです。なにせ、見るものがないから見なくていい。
ラジオとの再会は、風邪がもたらしました。多分中学校に入ってから。分かると思いますが、昼間寝てしまうと夜眠れないのです。暗い部屋で目を閉じていても、眠れないのです。これは退屈で仕方がありません。そして、再びラジオと邂逅と相成りました。確かコサキンだったかなと思います。次にレディクラ。
しかし悲しいかな、田舎の学校でラジオリスナーは僕一人のようだったのです。1人の楽しみとなってしまいました。「変態木曜日」にオギオギしつつ、それからぼくは高校生になりました。ここでようやくリスナー登場です。でもレディクラは岸谷五朗が売れっ子になり終了しましたが。伊集院光のOh!デカナイトをオススメしてくれたのは浅野くんです。でも、ごめんな。うち、TBSとNHK第一第二とFEN(現AFN)鹿入らなかったんだよ。文化も、ニッポンも、日本も入らなかった。そうして、僕はコアと言うほどでもないか、TBS好きへと育っていくことになりました。実家には今でも大沢悠里さんのサイン色紙があります。
転機が訪れたのは大学入学でした。大学にはいると一人暮らし。テレビも買えるわけで、独り占めできるわけです。
ラジオはその地位を追われました。そうです。お早うからおやすみまで、暮らしを見つめるのはライオンとテレビになりました。ちょうどこの頃でしょうか。インターネットなる黒船がやってきました。1999年頃だったかな。僕がISDNを入れたのは。東京では東京めたりっくとかいうASDLなんてものがあると聞いて、ISDNが64とか128とか言ってる頃に1.5M(だったと思う)も出すといって、これはとんでもないと感じたのを今でも思い出します。
わたしももれなくインターネットに迷い込み、このときできた人脈は今でも続いています。ってかすごいな。takex、よりくん、蜃気楼くん、SIGMAさん、かかおさん、響くん、見てるか?
ミッドナイトパーティでひとしきり大失敗したTBSラ。パックインミュージック21はそこそこ良かったな。upsも悪くなかったな。いわれれば思い出す番組が結構あったりします。
テレビがあった割にはラジオも聴いていたようです。しかし、これが一変する事態が。引越しです。
鉄筋コンクリートのマンションでは、AMラジオは劇的に入らないのです。そして再度の離脱。
ラジオの世界に帰ってくるのはそれから4年後。高円寺の狭いアパートに引っ越してからです。
狭いのでテレビはやめました。そして白羽の矢がラジオに。
まあ、ラジオはこういう感じです。久しぶりに付けても聞いたことのある番組が流れてくる。視聴率調査からは距離があり、聴取率調査でもそれほど醜くなることもない。テレビにはない魅力と言っていいと思います。テレビ放送がなくなっても別にどうということはないですが、ラジオ放送、ことにAMラジオがなくなったら、国家に打撃を加える用意はしておきたいと思います。