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2010-07-15

正鵠を逃しまくり。

今回のプレジデント、「同一労働・同一賃金」論の4つの欠陥は酷かった。格差が前提とされる間でしか成立しない。国際間の比較をするのか、国内の比較をするのかというのをごっちゃにして、国内における格差もうやむやにする気が露わになっている。酷い。


氏は「、私は、この原則に疑いを持っている。この原則をストレートに適用すると、悪平等あるいは不公正が生じる可能性があると考えるからである。このような疑い を持つ理由は4つある。」という。読んだ感想としては、「あなたの物差しは強力な重力下でも屈折しないのか?」だった。

第一の理由に関しては、購買力平価やその他の指標によって容易に修正されうる。日本で年収10万は死ぬが、バングラデシュで10万ならなかなかだ。ストレートというが、杓子定規なだけだ。購買力平価などで修正すれば、それは「同一だ」と言っても良いのではないか。

第二の理由「同一労働というものがありうるのかという問題」についてだが、同一と評価されることになる労働については、その成分について同一と見るという考えはないのだろうか。物事には誤差があるし、工作なら公差というものがある。精度の高い仕事をする人は精度の高い仕事という同一ではない仕事をしていると見るべきで、それを一緒くたにするのは評価上ないし人事上の問題だ。管理職なら管理業務の部分も評価しなくてはならない。違う部分は違うと評価するのが正しいが、同じ部分は同じと評価して何が問題なのだろうか。

第三は利があるように見えて、一部違う。前段はどうかと思う。会社に忠誠心の高い人間は損をする。それは平等と言えるのか。「やめればいいだろう」といっても、そういうふうに人間は判断するだろうか。(この点では確かに賃金以外の報酬があるということになる。)

第四も、高齢者による搾取の正当化に見える。第三でプロクターアンドギャンブルの「転職で高給」という例を挙げつつ、今度は長期労働者は恩恵があるという。まず、P&Gの長期従業員の給与は他者のそれと比べて優位に高いのか。もう一つ、非正規雇用者は長期働いてそれほど変わるのか。

詭弁でしかない。

だが、別の評価軸を出すと、違った評価にもなりうる。
「あいつらと話すだけ無駄」

そう思っているなら、なるほど、評価されないよう現地化してしまえというのは、納得いかないわけではない。

2010-05-05

権利と義務、自由と責任、世間と私、それと、結婚。労働編

養老孟司「無思想の発見」だったと思うが、お葬式の話が出てくる。江戸時代に、故人の遺言に葬式の次第が事細かに記載されていて、それが普通とは相当違うオリジナルの葬式だったため、これをどうしたらいいものかと偉い人に相談したときの話。
その偉い人は「一度普通の葬式をあげて、それからオリジナル葬式をしなさい」ということを言ったと書いてあった。
というのはうろ覚えなので、ぜひ原著をご参照頂きたい。私の手元には今見あたらない。ごめんなさい。

で、なぜこれを引いたかというと、現代日本人の権利と義務、自由と責任に関する意識が、江戸時代のそれよりも劣化しているのではないかという考えに至ったからだ。
上記の例では、オリジナルな葬式をあげることは否定されていない。やって良い。これは権利であり自由に属するもの。その一方で、「普通の葬式をあげよ」と言っていて、私もむしろこちらに着目している。

実は、この例は公と私との違いについての例として挙げられていたもの(だと記憶している)なのだが、自由や権利についても適用あるいは準用できるし、同著でも触れられている「世間基準」にも関係するからだ。寝ようと思ったら結婚にも繋がることが分かったので仕方なく寝ないで書くことにした。

ちなみに、「権利」は「right」からの造語であることが知られるが、明治維新前後には様々な造語がされている

まずは日本人の労働のとらえ方。もんどさん日本の労働は労道となっていると言われ、僕はその現状は追認しつつ、労働に関する考え方が誤りなのではなく、権利義務意識そのものが誤っているからだと説いた。労働に関する考え方もそれに内包されるには違いないが、労働に関するそれだけが誤っているわけではない。もっと根源的な部分から間違っている。イワシは1匹で飼うものではないのだ。

江戸時代の労働には疎いので、助けてgoogle先生のお時間です。
江戸時代の労働に関する各種サイト

調べてみると、雇われの身は悲しいかな、現代とそうそう変わらないようだ。「商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。」「匠大工の人の労働時間は午前6時~午後4時まで。日雇い大工は午前6時~午後8時まで。昼食は2時間かけていたので、匠大工が8時間、日雇い大工は12時間働いていた」。一方、雇われでない身では結構いい加減だったようだ

江戸時代に日曜はないけど一応休みの日の概念はあったのかこういう記述も見つけた。
江戸時代には電気がないんだ。どんなに忙しくたって暗くなれば寝るしかない。残業なんてないしね。交通機関もないから何時間もかけて通勤することもない。 時計がないから分刻みの労働管理もできない。電話で催促されることもない。仕事の密度は、現在とはまるで違うはるかにのんびりしたものだっただろう。と、 詩人の想像力で思うけど。現在のような密度で仕事をさせられたら週休2日でもシンドイが、江戸時代は年2回の休みでもやれるくらいの密度だったんじゃない の。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/museifu/dialogue04.html
電気はなくとも必要なら灯りはあった。でも今ほど安いわけでもなかったろうから、概ねこの主張は筋がいいと思う。とくに、携帯電話はおろか電話すら当時はなかったもんね。台風でも出社するのもよく考えればおかしいし、動いている交通機関もおかしい。ひょっとしたら、世間そのものが機能しなくなっているのかも知れない。

さて、現状と全て総合して考えると、現代日本のサラリーマンはみな丁稚扱いだということにすると、一見矛盾がなくなる。経営から見たら「丁稚があれこれ騒ぐな」だし、労働者からすれば「いつまで丁稚扱いだ」となる。そりゃ大学出てから20年も丁稚奉公しなきゃいけないっていうならおかしいわ。とはいえ、「では明日から独立してやってくれ」と言われてはいそうですかというわけにもいかない。独立してやっていけるだけの能力があるという人はそうそう多くないだろうし、そもそも不満があれば出て行くか。と、これは多分経営者側の見方だ。

一方、労働者の観点に移ると、雇用契約は労働力の売買だ。ビジネスライクだ。

ところで、契約不履行があった場合、大陸法では原則を契約の履行で解決しようと考える。これに対して英米法では損害賠償で解決すればいいと考える。日本は大陸法の系譜なので、契約は契約だから履行しろとなる。これに対する英米法の考え方は実におもしろい。

たとえば、椅子100脚を月末までに1万ドルで納入する契約を結んだとする。一方、テーブル50卓が2万ドルという需要があったとする。このとき、100脚の椅子と50卓のテーブルでは50卓のテーブルの方が1万ドル儲けが多いことになる。これを違う言い方をすると、100脚の椅子より50卓のテーブルの方が1万ドル分社会の利益であると考える。つまり、この例では椅子よりテーブルを売った方が公共の利益に適うのだ。だから、椅子の契約を破棄して損害賠償を支払い、テーブルを売った方が正しいということになるという考えだ。

上記のような、どちらも可能だが両方が可能ではないという場合の契約破棄は上記の通りだが、椅子は作れないがテーブルは作れるという場合、椅子の部分は履行の強制ができないため、結局は損害賠償で決着するしかない。すると、英米法の考えの方が合理的だと考えることができる。

さて、労働に戻る。つまり、労働者に不満があれば、もっと良い条件、給与面かそれ以外の待遇面で好条件のところに移ればよいのでは? という疑問が出てくるはずだ。もっともだ。ビジネスなのだから、サクッと移ってしまえばいい。でも労働者は不満を述べるのが主で、移籍はあまりしない。なぜだろう。

それは、労働が労働者にとって、未だに労働がビジネスではなく奉公であると捉えられているということではなかろうか。ビジネスだったらもっとシビアでいいはずだからだ。もちろん、労使の力の格差というのもあるけれども、転職市場がないというわけではない。

一方、ブルーカラーではそう簡単に転職とは言えなかろう。知識以上に技術は一朝一夕では身に付かない。作業に縛られた封建制とも言えるのかも知れない。これは転職ではなく労働争議によるほかなかろう。

では、このm経営側からは「甘え」と言われても差し支えない不条理感はどこに起因するのか。たぶん、管理できない管理職の無能と、ノブレスオブリジュの欠如にあるのではないか。管理職は部下を適切に管理するのが職責だが、管理とは何かといわれて正鵠を射ることのできる管理職は少ないだろう。じゃあ、管理者の職責って? という問題はドラッカーのマネジメントでも読めば分かるはずなので割愛。リンク先はアマゾンだけどアフィではないです。

現状、管理職がプロフェッショナルではないこと、管理側と被管理側との考えに乖離があること(民主が政権取ったら次々自民と似たようなことをやってるのも考察する上でおもしろい。日本では平から昇格して管理職になるのが政権交代と似る。) あたりに原因を求められるのだろうか。

つか、「労道」なんていってるやつはアマチャンという結論に至りかけたのは相当意外だった。これはお仕置きされかねない。まあ、死なずに生きていくこと自体、一種の自然淘汰の試練場だから、辛くて当たり前なのかも知れない。人生自体人生道とでもいうべきものですよ。モルセッリが言ったとおり、自殺は精神という弱点を抱えた者が自然淘汰される一形態。絶えられないやつは死んじゃう。ラテン野郎みたいに楽しみ方を知ってると楽しめる。日本人は物事を楽しみたくない民族というだけのことかも知れない。

2010-02-20

マネジメントを考え(てい)る

会社の人と話をして、国際事務機器がおかしいという話になった。
以前はメーカーだったのがソフトウェア会社になりつつあり、その先にはマネジメント会社への変貌を考えているような気のするブルーな会社。


ソフトウェアのライセンス。ライセンス自体は実体のある製品ではないから、お金を取ろうと思ったら何を単位としてそれに単価を設定するかということになります。Windowsならパソコン1台に1個ですが、ものによってはCPU1個に1ライセンスというものもありますし、そのソフトウェアによって恩恵を受ける人数を基準とすることもありますし、OracleDBみたいにCPUのコアの数量を基準とする場合もあります。


IBMのソフトウェアはあらかたPVU(プロセッサ バリュー ユニット)という単位で売ります。CPUコア課金の一形態なのですが、CPUの種類によって基準となる評価数を変えて、それにコアの数を乗じて料金が算出されます。たとえばXeon5450を2個乗せているサーバーであれば、1コア50PVU、4コアのCPUが2個乗ってるから400PVUなので、1PVUの400倍の価格、ということになります。SPARCやPOWER5、Opteronなど、CPUによってそれぞれ1コアの評価値(PVU)は違います。


コア課金の場合、CPUのコアは誰がどう見ても2個なり4個なりの客観的数量に落ちつきますが、PVUの場合、基準となるPVUを決めるのはIBM。PVUの評価をいじれば好きなように1CPUあたりの基準金額を変えられるというのがキモ。


路線価を変えれば狭い土地からもたんまり固定資産税を取れるようなもの。


で、IBMのライセンスが高い。IBMに限ったことじゃないけど。


憤慨しておられました。おまえらどうやってこれ売ってんだ? と言いたいと。


ばいざうぇー


どうやったら顧客に気付かれずにもっと多く搾り取れるかというのは、経営者ならちょっとは脳裏をかすめることだと思う。もう少し欲しいなあと思うことはきっとある。でも、客はもっと安かったらなあと思っているのは間違いない。売る方になるかどうかというのは人によってあったりなかったりだけど、買う方になったことのない人はまずおるまい。


ビジネスの要諦はどうやって気前よく反復継続してより多くのお金をお支払いいただくかにある。気前よく払いたくなければ逃げられる。逃げられたくなければ囲い込むことだが、それが満足なレベルでできるのはマイクロソフトと公権力だけだろう。


一般的には巧いこと言いくるめて払わせちゃうわけだけど、「騙された!」となるとこれは非常にマズい。「反復継続」が成立しなくなる。だから嘘に嘘をミルフィーユ状態になる。こうなると結果は2つしかない。現実が嘘に近づいてくることで辻褄があってセーフになるか、破綻か。


前者は希望的観測というやつで、購入するものがコモディティである限り前者はまず成り立たない。コモディティかつプレミアムということが可能なら成り立ちうる。たとえば牛肉。オージービーフも大田原牛も牛肉という点では一緒だし、栄養価を見れば脂肪の量が違うという程度だろう。ビタミンやミネラルの量がそんなに変わるとは思えないし、そもそも一般消費者はそんな観点で牛肉を選ばない。


プレミアムというのは、動機付けだ。成分が全く同じチョコレートならば、同じ価格であるはずだ。でも、たとえば初めから割れているので食べやすいとか、ひとかたまりがピンポン球くらいあって食べごたえが半端でないとか、原価以外の付加価値の部分だ。チョコレートや牛肉の例のように付加価値に訴求力があればいい。


でも、ビジネス用のソフトウェアは完璧なまでにコモディティだ。アバターがついてて可愛らしいとか、DVDメディアにジャニタレの画像があるとか、そういうのは全く期待されていない。完璧なまでに道具として優れていて、かつ安いことが求められている。では、道具としてはほぼ同等の評価がされていたらどうか。価格だ。


もちろんソフトウェアはそれだけではない。サービスとサポートだ。でも、両者を必要としていない顧客には売れないだろう。ガソリン屋さんはオリーブオイルやごま油は買うだろう。でも灯油や軽油、ガソリンは間に合っている。仕入れ以外の理由で買うわけがない。


多くのお客さんは現状にかなり満足している。それなのに新しくものをより高く買ってもらおうというのであれば、もっと便利になることをアピールするしかない。でも、そんな機能はいらないと言われたら、さてどうするかということになる。フォード車はレギュラーガソリンでよいのに、どうやって儲けよう。貴方ならどうするだろうか。僕ならガソリン屋の傍らフォード車を売る。


#金融危機でGMもクライスラーも潰れたのに、フォードだけ潰れなかった。多分経営哲学が素晴らしいせいなんだろう。顧客が気にしているのは燃料消費率ではなく、ガソリン代だということを適切に見抜いていた。まだ炭素税かかってないからね。そうすると、ディーゼルハイブリッドなんてものが今後出てくるのかも知れない。


マネジメントは経営と和訳されるけど、経営というと数字いじりやお金のことばかり前面に出てきている気がしてあまり好まないので、あえてマネジメントという単語を選ぶ。「人をどう動かしてどうやって巧くやるか」がマネジメントと捉えている。


恣意的に価格をつり上げるようなマネをして継続反復したビジネスを途切れさせ、あるいは間口を狭くするというのは、マネジメントとして成功だろうか。