2010-05-05

権利と義務、自由と責任、世間と私、それと、結婚。労働編

養老孟司「無思想の発見」だったと思うが、お葬式の話が出てくる。江戸時代に、故人の遺言に葬式の次第が事細かに記載されていて、それが普通とは相当違うオリジナルの葬式だったため、これをどうしたらいいものかと偉い人に相談したときの話。
その偉い人は「一度普通の葬式をあげて、それからオリジナル葬式をしなさい」ということを言ったと書いてあった。
というのはうろ覚えなので、ぜひ原著をご参照頂きたい。私の手元には今見あたらない。ごめんなさい。

で、なぜこれを引いたかというと、現代日本人の権利と義務、自由と責任に関する意識が、江戸時代のそれよりも劣化しているのではないかという考えに至ったからだ。
上記の例では、オリジナルな葬式をあげることは否定されていない。やって良い。これは権利であり自由に属するもの。その一方で、「普通の葬式をあげよ」と言っていて、私もむしろこちらに着目している。

実は、この例は公と私との違いについての例として挙げられていたもの(だと記憶している)なのだが、自由や権利についても適用あるいは準用できるし、同著でも触れられている「世間基準」にも関係するからだ。寝ようと思ったら結婚にも繋がることが分かったので仕方なく寝ないで書くことにした。

ちなみに、「権利」は「right」からの造語であることが知られるが、明治維新前後には様々な造語がされている

まずは日本人の労働のとらえ方。もんどさん日本の労働は労道となっていると言われ、僕はその現状は追認しつつ、労働に関する考え方が誤りなのではなく、権利義務意識そのものが誤っているからだと説いた。労働に関する考え方もそれに内包されるには違いないが、労働に関するそれだけが誤っているわけではない。もっと根源的な部分から間違っている。イワシは1匹で飼うものではないのだ。

江戸時代の労働には疎いので、助けてgoogle先生のお時間です。
江戸時代の労働に関する各種サイト

調べてみると、雇われの身は悲しいかな、現代とそうそう変わらないようだ。「商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。」「匠大工の人の労働時間は午前6時~午後4時まで。日雇い大工は午前6時~午後8時まで。昼食は2時間かけていたので、匠大工が8時間、日雇い大工は12時間働いていた」。一方、雇われでない身では結構いい加減だったようだ

江戸時代に日曜はないけど一応休みの日の概念はあったのかこういう記述も見つけた。
江戸時代には電気がないんだ。どんなに忙しくたって暗くなれば寝るしかない。残業なんてないしね。交通機関もないから何時間もかけて通勤することもない。 時計がないから分刻みの労働管理もできない。電話で催促されることもない。仕事の密度は、現在とはまるで違うはるかにのんびりしたものだっただろう。と、 詩人の想像力で思うけど。現在のような密度で仕事をさせられたら週休2日でもシンドイが、江戸時代は年2回の休みでもやれるくらいの密度だったんじゃない の。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/museifu/dialogue04.html
電気はなくとも必要なら灯りはあった。でも今ほど安いわけでもなかったろうから、概ねこの主張は筋がいいと思う。とくに、携帯電話はおろか電話すら当時はなかったもんね。台風でも出社するのもよく考えればおかしいし、動いている交通機関もおかしい。ひょっとしたら、世間そのものが機能しなくなっているのかも知れない。

さて、現状と全て総合して考えると、現代日本のサラリーマンはみな丁稚扱いだということにすると、一見矛盾がなくなる。経営から見たら「丁稚があれこれ騒ぐな」だし、労働者からすれば「いつまで丁稚扱いだ」となる。そりゃ大学出てから20年も丁稚奉公しなきゃいけないっていうならおかしいわ。とはいえ、「では明日から独立してやってくれ」と言われてはいそうですかというわけにもいかない。独立してやっていけるだけの能力があるという人はそうそう多くないだろうし、そもそも不満があれば出て行くか。と、これは多分経営者側の見方だ。

一方、労働者の観点に移ると、雇用契約は労働力の売買だ。ビジネスライクだ。

ところで、契約不履行があった場合、大陸法では原則を契約の履行で解決しようと考える。これに対して英米法では損害賠償で解決すればいいと考える。日本は大陸法の系譜なので、契約は契約だから履行しろとなる。これに対する英米法の考え方は実におもしろい。

たとえば、椅子100脚を月末までに1万ドルで納入する契約を結んだとする。一方、テーブル50卓が2万ドルという需要があったとする。このとき、100脚の椅子と50卓のテーブルでは50卓のテーブルの方が1万ドル儲けが多いことになる。これを違う言い方をすると、100脚の椅子より50卓のテーブルの方が1万ドル分社会の利益であると考える。つまり、この例では椅子よりテーブルを売った方が公共の利益に適うのだ。だから、椅子の契約を破棄して損害賠償を支払い、テーブルを売った方が正しいということになるという考えだ。

上記のような、どちらも可能だが両方が可能ではないという場合の契約破棄は上記の通りだが、椅子は作れないがテーブルは作れるという場合、椅子の部分は履行の強制ができないため、結局は損害賠償で決着するしかない。すると、英米法の考えの方が合理的だと考えることができる。

さて、労働に戻る。つまり、労働者に不満があれば、もっと良い条件、給与面かそれ以外の待遇面で好条件のところに移ればよいのでは? という疑問が出てくるはずだ。もっともだ。ビジネスなのだから、サクッと移ってしまえばいい。でも労働者は不満を述べるのが主で、移籍はあまりしない。なぜだろう。

それは、労働が労働者にとって、未だに労働がビジネスではなく奉公であると捉えられているということではなかろうか。ビジネスだったらもっとシビアでいいはずだからだ。もちろん、労使の力の格差というのもあるけれども、転職市場がないというわけではない。

一方、ブルーカラーではそう簡単に転職とは言えなかろう。知識以上に技術は一朝一夕では身に付かない。作業に縛られた封建制とも言えるのかも知れない。これは転職ではなく労働争議によるほかなかろう。

では、このm経営側からは「甘え」と言われても差し支えない不条理感はどこに起因するのか。たぶん、管理できない管理職の無能と、ノブレスオブリジュの欠如にあるのではないか。管理職は部下を適切に管理するのが職責だが、管理とは何かといわれて正鵠を射ることのできる管理職は少ないだろう。じゃあ、管理者の職責って? という問題はドラッカーのマネジメントでも読めば分かるはずなので割愛。リンク先はアマゾンだけどアフィではないです。

現状、管理職がプロフェッショナルではないこと、管理側と被管理側との考えに乖離があること(民主が政権取ったら次々自民と似たようなことをやってるのも考察する上でおもしろい。日本では平から昇格して管理職になるのが政権交代と似る。) あたりに原因を求められるのだろうか。

つか、「労道」なんていってるやつはアマチャンという結論に至りかけたのは相当意外だった。これはお仕置きされかねない。まあ、死なずに生きていくこと自体、一種の自然淘汰の試練場だから、辛くて当たり前なのかも知れない。人生自体人生道とでもいうべきものですよ。モルセッリが言ったとおり、自殺は精神という弱点を抱えた者が自然淘汰される一形態。絶えられないやつは死んじゃう。ラテン野郎みたいに楽しみ方を知ってると楽しめる。日本人は物事を楽しみたくない民族というだけのことかも知れない。

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