2010-03-21

もういい加減にしろ

「美人すぎる市議」自民が参院比例に擁立検討
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100321-OYT1T00051.htm

知名度は確かに選挙戦には必要だけど、ろくすっぽ政策も論議しないで、知名度重視で候補者持ってきて、で、この国をどうするつもりだ?

有権者を小馬鹿にするのももうやめて欲しいし、それにもかかわらず票を入れちゃうお馬鹿さんももう大概にして欲しい。 舐められてるんですよ。有権者。包装紙は見るけど中身は気にしないって。

2010-03-19

sprouts, japanese maple.

春です。

春というとどことなくお祭り騒ぎを期待させるような雰囲気を感じるのは、日本人だけなのでしょうか。

2010-03-18

バイクが売れなくなったわけ

 市場規模はピーク時の6分の1!?
バイク業界にみる縮小市場で生き残る方法
http://diamond.jp/series/funai/10011/

気付いた点

1) 落ち込みが大きいのは原付である
2) 1987年に何があった? (ブラックマンデー? 原付のヘルメットの義務化は86年)
3) 93年から97年および99年から2007年の平坦部はなぜ生まれた?
4) 1999年以降原付2種の台数が減った理由は? (2ストエンジン生産終了?)
5) 2008年に原二が一瞬復活している
6) 1998年から1999年に何があった?(2ストエンジン生産終了?→1999年規制というのがあるらしい)

変態の立場から言わせていただけるのなら、スズキは相当頑張っていたと思います。チョイノリを発売しました。99年にはHayabusaを発売し、メガスポーツというジャンルを切り開きました。それまではGSX-R1100RかZZR1100くらいしかなかった高速巡航性と軽やかなスポーティさとを併せ持つジャンルです。

YAMAHAは95年に発売した、ビッグスクーターブームの先鞭であるmajesty以降、中排気量はスクーターに注力してその他はほぼなおざり。残念です。

 日本人は天変地異が当たり前に起こる土地に生まれ育ってきたせいか、変革を起こすパワーがほとんどありません。「仕方がない」「やむを得ない」と受け入れてしまう。これは現代では間違いです。

我々のポリシーは何か、フィロソフィーは何かという軸を定めるのがまず真っ先になされるべきことで、 妥協するのはそれからあとです。

「free」とはいかないですが、安価なエントリークラスを東南アジアから導入するのと同時に、免許制度や駐車場対策、法制度にも切り込んでいくのがよいでしょう。「バイク乗りにとって希望する将来」を切り開いていくのがメーカーとして正しい姿です。


---2010, apr 2nd added---
1993年、ヤマハpas発売

2008年12月 アシスト比率改訂
2009年2月 改訂後比率に適合したモデルが発売
http://www.yamaha-motor.co.jp/news/2010/0108/pas.html

2010-03-05

不作為の嘘

地球温暖化とCO2は無関係ではないが、CO2が温暖化の原因ではなく、温暖化するとCO2が増えるというお話し。
問題は、誰が何の意図でもってCO2を悪玉に仕立て上げ、人が増え、経済活動が活発になればなるほど排出も増えるCO2の排出抑制を言い始めたのか。
結局は、利権の話。







2010-03-04

水曜だと思ったら木曜だった。






人間は人間であると同時に、動物だ。動く物なので、動くべきだ。
一昨日、昨日と引きこもっていたらどうにも眠たくて困った。
古い機械が使われて、手入れをされて100年の長きにわたってはたらき続けるように、人間も手入れ以前に使われなくてはいけない。






今日は午後から雨だというので、ならばと午前中に散歩してきた。昨日近所のコンビニに欲しい雑誌があるか調べるついでに遠回りして帰ったら、梅の花が咲いているのを見つけたのだ。万葉集で得た「花」の座を古今和歌集以降は桜に座を奪われはしたが、それでも香りでは依然として勝っている。と思う。
紅白の目出度い組み合わせは桜には真似できまい。




梅を撮って、そのまま帰ろうかとも思ったのだが、折角なので更にほっつき歩くことにした。自転車もバイクもあると、通勤以外ではまず歩かない。有給休暇を消化しに入った僕は歩くことを目的にしないと歩くことがないわけだ。いや、出かけるところはあるだろう、俺。


ぶらぶらと歩いていると川沿いに出た。東京にも川鵜がいる。海鵜と違って川鵜はあまり好まれてはいないようだ。
後頭部がかっこいい。


護岸を作り直していた。既に砕かれたコンクリートの壁は、重機によってさらに握りつぶされるようにさらに砕かれていた。撮りたかったが勇気がなくてやめておいた。意外と握りつぶし感はジェントルでした。




こういう雑然とした画が撮れるのは日本のアジア感がしっかりしているせいだ。西洋が入っているとはいえ、日本の感性の基礎はアジア的カオティックの中にある。この菜の花はプランターから生えていた。写真は臭わない。音もしない。それは欠点に見えるかも知れないが、利点でもある。




ユキヤナギなのだが、寄りすぎた。これはちょっとそれに見えない。


思い出した。蝋梅の写真を撮りに行くのだった。ああ、土日は雨だったっけ。あと、名前の知らない釣り鐘型の小さな花を付ける木があるのだ。インターネットでいろいろと調べられるようにはなったものの、言語化できないものはどうにも無理だ。




ああ、そうそう。撮りに行ったのは梅だった。桃ではないと思うのだけど。枝には切る前のきりたんぽ(確かにただ「たんぽ」と書けばいいのだが、きりたんぽの名前の方がメジャーだからねえ。ショートケーキの絵を子どもに描かせたら、きっと扇形のあのカタチで描くように。ホールで描く子どもはなかなか居るまい。)


桜は花見・・・もとい、酒とセットにするにはよい。桜の時季なら凍死しづらかろう。さすがに梅の時期は死にかねない。


梅は予兆、桜は確信とでもいおうか。梅の時期はまだ寒い。春は確かに来ているが、まだどこにいるのかは見えていない。
桜は、春が曲がり角を曲がってこちらに向いた感じだ。そこで一旦止まることはあったとしても、直にここに来るに違いないことだけは間違いない。




鳩が大変に群れていた。カラスが生ゴミの比じゃないのでおそるおそる寄ってみた・・・
カレーパンはありました。
今60cmまで寄っています。おい、野良鳩共逃げやがれ。次は網持ってくんぞ。


スズメと遊んでみたいものですが、連中はもっと野良としての矜持がありますね。

2010-03-03

選挙のあり方と地方分権

「そういう選択を長崎の方がされるのなら、民主党政権は長崎に対しそれなりの姿勢を示すだろう」 http://www.youtube.com/watch?v=9Jc-PZ8wcQM

これはあまりにも酷い。支持するならそれに応えるとも、支持しないなら冷や飯食わせてやるとも取れる。「批判があったらば、人気取りのために利益誘導しましょう」なんて解釈の成立する余地は、絶対にない。

さて、選挙だ。ここは国政に限る。

国政選挙には概ね3通りの選出方法がある。小選挙区制、中選挙区制、大選挙区制だ。
小選挙区制は1選挙区から1人の候補を選出する。中選挙区は2人以上、概ね5人くらいまでか。大選挙区制はそれより多いが、ここでは全体を1選挙区とすることを念頭に置く。つまり、全国区だ。

小選挙区制にはあからさまなデメリットがある。地元への利益誘導だ。ついでに言うと、国会議員の小選挙区選出候補は都道府県議会議員ないし都道府県知事とかぶる。都道府県議会議員及び知事は都道府県への利益誘導をするのは当たり前で、かつ、重要だ。彼らは自分の責任範囲である都道府県全体の利益を考える必要がある。

国会議員が地元への利益誘導を考えることになる選挙区制は、もはや時代遅れだと言うべきだ。前述の通り、そんなことは都道府県の代表にさせればよい。国会議員は国民の代表では確かにあるが、国全体のことを考えて仕事をすべきだ。たとえば、我が故郷である茨城県から選出されていたとして、茨城の利益になる事業を引っ張ってくるのであれば他府県の利益になり、かつ国家の利益となることを述べて利益誘導をすべきだ。もっと言えば、国家のことを考えてもっと重要なところへ利益をもたらすべきだ。地元の代表という立場はそのような考えから議員を遠ざける。

一方、「我々に関することは我々が決めるべきだ」という民族自決の考えが国政に反映されるべきだという考え方もあり得る。だから、国会議員は地元の代表を選出すべきだ、と。

ちょっと待て。ならば、何のための都道府県議会だ?

そういろいろ考えていくと、国会議員は国税、外交、防衛、移民など、個々の地方議会に権限を移譲すべきでない事柄だけ扱えばよいということになる。確かにそうだ。地方分権が云々声高に言われるようになって久しいが、結局はこういうことだったのだ。国がやっていたことをもっと地方に譲ろうというのではなく、本来地方がやるべきだったことを国は早く地方に譲れということなのだ。


なるほど。各地方がやるべきだったことを、中央政府ないし国会議員がやっていたから問題だったのだ。

しかしながら、関所があった江戸時代ならともかく、現代では都道府県の境目は単に住所が違う程度の意味しかないのは越境して通勤通学する人間の多さを見れば分かる。ある程度結びつきの強い地域は一体のものとして扱い、弱いところを境目にして、もっと大きい単位で地方自治を区切ろうということが道州制の一つの見方と言える。通勤で神奈川から東京に入ったら税制も権利義務も何もかも違うというのでは、確かに生活が不便だ。だから、切りにくいところは繋げておくという程度でまとめる。まあ、東京はあまりに巨大だから、わざと切り離すということもあっていいとは思うが。

こうしてとりとめもなく考えると、地方分権と選挙制度改革はセットだということがわかる。

たとえば、以下のように分けてみよう。ある程度恣意的だけど適当だ。
北海道
青森、秋田、岩手、宮城、山形
福島、下越、中越、茨城、栃木、群馬
東京
埼玉、神奈川、千葉
静岡、山梨、長野、上越
愛知、岐阜、三重
富山、石川、福井
滋賀、京都
大阪
兵庫、和歌山、奈良
岡山、広島、鳥取、島根、山口
四国四県
九州七県
沖縄

1年間に1人の人間が使う金額には下限がある。だから、経済規模は人口と相関があると言っていい。だから、人口の大きいところは独立させる(というより、切り離す)

人口の少ないところは経済的に若干恵まれないことになるから、この不均衡は正した方が良さそうだ。都市部では人口の多さゆえに投資に対する回収の効率が高いから、たとえば日本で初めてのADSLは東京めたりっくだったが、当然大都市東京から始まった。都会ではプロパンガスではなく都市ガスだ。回収しやすいから民間資本がインフラに投資してくれる。地方では採算に乗せるための投資が大きな負担になる。

この分は正確に見積もって都会以外に投資した方が良さそうだ。民間にできないことは政府にさせるしかない。ここで国税の出番。国庫支出金なり、地方交付税なりは本来都市と非都市との格差を是正するためのものなのだろうけれど、現状はどうだろう。

ここで、都道府県より広域の道州制が生きてくる。つまり、3人の兄弟それぞれに1万円の小遣いをくれてやったらみんなwiiの本体を買っておしまいだが、3人まとめて2万円くれてやれば本体と併せてソフトも買えるということだ。少ない額で、意味のある投資ができる。
3人だったら1万円ずつでひょっとしたらもっとマシな使い方があるかも知れないが、10人だったら1人3千円しかやれない。ソフトすら買えない。これではカネが活きない。活かすための道州制を僕は考えている。

かといって、女きょうだいが男きょうだいと一緒くたというのは考え物だ。だから沖縄は別にしてみた。

日本人は他国の侵略に晒されたことがある。それを退けたことがある。他国による侵略を受け、主権を奪われたことがある。しかしながら、独立戦争をしたことがあるわけでもないし、革命をしたこともない。
国とは何か、主権とは何か、独立自尊とは何か、選挙とは何か、そういういろいろなアイデンティティに関わるよしなしごとについて、日本人はそろそろまじめに考えるじきにあるんじゃないだろうか。政権交代はその良い契機だと思う。

2010-03-02

捕鯨禁止の主張になぜ反論した方がよいか

彼の主張はこうだ。反対されているのだから反対に理由もあるだろうからやめればいい。捕鯨は必要とは言えない。

私は反論した。理由はあるだろうが、それが正当な論拠に拠ったものではなく、相手に損害を与え、己のみが利益を得る単なる言いがかりであること。必要がないからやめればいいというのは、凡そ文化的な主張ではないということ。

前者は措くとして、必要がないからやめればいいと言うのは危うい。

たとえば、だ。私が「お前にそんな彼女(カミさん)は合わないから別れろ。彼女も嫌がっている。縁を切れ。」といきなりに言えばどうだろう。そういう兆候があれば別だろうが、だいたいは色をなして反論されるに違いない。

そもそも必要という概念、および、必要でないという概念自体、恣意的に用いられすぎだ。両方とも特定の条件下のみで用いることができるというべきだ。

人間には酸素が必要だ。ただし、死人にはもはや必要ない。肺炎の患者には酸素ボンベの酸素が必要だろう。植物は自ら作れるので、必要は必要だが植物は自ら作れるのでわざわざ与える必要はない。

行倒れ寸前の家出人は盗みをしてでも食料を手に入れる必要があるかも知れないが、行倒れ寸前の家出人であってもお金を持っていれば食料を盗む必要性に欠ける。

捕鯨は必要か。これも条件を設定して回答する必要がある。まず一つに、食料として。
食料としてみるだけならば必要はない。第一、私はここ数ヶ月クジラを食べていないが、健康を害してはいないし、当然飢えてもいない。クジラを食べなくとも死にはしない。

次に、工作材料としてのクジラを考える。詳しくはないのだが人形浄瑠璃の人形などではクジラのヒゲが重要らしい。代用の素材は簡単には手に入らないだろう。いくら科学が発達したとはいえ、今でもバイクレースでレーサーが着用するスーツは牛革製だ。吸湿性に優れた素材なら綿だろうし、あるいは羊毛だろう。生物素材が人工素材にかなわないことはいくらでもある。でも、浄瑠璃の人形を作らなければ済む話だ。必要だとは言えない。

次に、文化や技術の媒体としてのクジラだ。先述の人形浄瑠璃の人形。つくりかたが忘れ去られれば再度製法を発見することは至難を極める。調理法も失われるだろう。将来クジラを捕って食わねばならないような時代になったとき、その知恵があるとないとでは当然暮らしは異なる。でも、せいぜいマズいくらいであって、食えないわけじゃない。必要だとは言えない。

必要ないのだ。クジラなんて必要ない。食う必要もないし、素材として取る必要もない。代わりはいくらでもあるだろう。

では、私があなたにこう言ったらどうだろう。捕鯨が必要ないという主張が通るなら、私が次の通りに言ったら受け入れてもらわねば困るのだ。だから、必要でないというのを論拠に今あることをやめるということには、非常に慎重であるべきなのだ。

「死ね。お前なんて必ずしも人類に必要な人間だとは言えない。代わりはいくらでもいる。死ね。」