2010-07-15

正鵠を逃しまくり。

今回のプレジデント、「同一労働・同一賃金」論の4つの欠陥は酷かった。格差が前提とされる間でしか成立しない。国際間の比較をするのか、国内の比較をするのかというのをごっちゃにして、国内における格差もうやむやにする気が露わになっている。酷い。


氏は「、私は、この原則に疑いを持っている。この原則をストレートに適用すると、悪平等あるいは不公正が生じる可能性があると考えるからである。このような疑い を持つ理由は4つある。」という。読んだ感想としては、「あなたの物差しは強力な重力下でも屈折しないのか?」だった。

第一の理由に関しては、購買力平価やその他の指標によって容易に修正されうる。日本で年収10万は死ぬが、バングラデシュで10万ならなかなかだ。ストレートというが、杓子定規なだけだ。購買力平価などで修正すれば、それは「同一だ」と言っても良いのではないか。

第二の理由「同一労働というものがありうるのかという問題」についてだが、同一と評価されることになる労働については、その成分について同一と見るという考えはないのだろうか。物事には誤差があるし、工作なら公差というものがある。精度の高い仕事をする人は精度の高い仕事という同一ではない仕事をしていると見るべきで、それを一緒くたにするのは評価上ないし人事上の問題だ。管理職なら管理業務の部分も評価しなくてはならない。違う部分は違うと評価するのが正しいが、同じ部分は同じと評価して何が問題なのだろうか。

第三は利があるように見えて、一部違う。前段はどうかと思う。会社に忠誠心の高い人間は損をする。それは平等と言えるのか。「やめればいいだろう」といっても、そういうふうに人間は判断するだろうか。(この点では確かに賃金以外の報酬があるということになる。)

第四も、高齢者による搾取の正当化に見える。第三でプロクターアンドギャンブルの「転職で高給」という例を挙げつつ、今度は長期労働者は恩恵があるという。まず、P&Gの長期従業員の給与は他者のそれと比べて優位に高いのか。もう一つ、非正規雇用者は長期働いてそれほど変わるのか。

詭弁でしかない。

だが、別の評価軸を出すと、違った評価にもなりうる。
「あいつらと話すだけ無駄」

そう思っているなら、なるほど、評価されないよう現地化してしまえというのは、納得いかないわけではない。

2010-07-03

必要だと思われているもの

Topgearというイギリスンジョーク(http://www.nicovideo.jp/watch/sm11259066) があまりにもおもしろかったので今日12度目のループ中なのですが、もちろんイギリスンジョークというのはボケです。

お笑いコンビにボケと突っ込みとの両方が必要かという命題について、僕は片方でよいという立場を取っておりました。突っ込みは不要であると。

今気付けば、全盛期の爆笑問題がまさにこのパターンでした。太田がボケ倒す、その横で田中がハエのように逐一の突っ込みを、田中が我関せずとボケ 倒す横で、田中のボケに一切影響を与えることなく若干の無力さと共に連打する。
僕が覚えている限り、爆笑問題の初期の芸風はこんなで、これがおもしろかった。

で、お笑いコンビに突っ込みは必要か。結論から言えば不要。もちろん、突っ込みの切れ味に頼る芸風なら必要ということになる。この場合、ボケても いないものに切り口鋭い突っ込みを浴びせることで、相対的にボケを作り出す側面もあるから必要なくなる。ボケ役は必要なくなるが、ボケという要素自体は相 変わらず必要だ。

で、topgear。例の三輪自動車のパートはボケしかない。突っ込みはない。
突っ込む必要はないし、それは視聴者にもできることだ。だから、必要ない。
突っ込んでも良いし、突っ込まないで笑ってしまえばいい。笑い自体が突っ込みと同等役割を持っている。役割としても、要素としても、必須とは言え ない。

では、なぜ突っ込みは必須でないのか。
むしろ、その役目を視聴者に与えることで、作り手が視聴者に一定のレベルを信頼して期待し、視聴者は話の輪から取り残されない。こういう効能が出 てくるのではないだろうか。

そう考えると、僕はテレビを見なくなって久しいけど、テレビがおもしろくないといわれる理由が分かる気がするのだ。だって、Topgearはこん なにおもしろいのだから、テレビがおもしろくないというのは嘘なのだ。つまらないのは番組がつまらないだけの話。

必要なのはおもしろくする努力より、視聴者を信頼して期待することなのかも知れない。
テレビ番組がつまらない・質が低いというのは、換言すると、視聴者の質が低い、つまらないということなのかも知れない。

2010-06-26

思考訓練

10年前には最新鋭だったPCなので、なかなか更新が億劫でこんばんは。

今日は思考訓練です。発想法を磨くというか、先入観や不要な常識を排除してよりよいアイデアが出るように、私が実践していることです。

やってることは簡単。逆を行くことと、全て同一の結論に達すること。

いきなり食い違ってるわけですが、これを同時にやる訳じゃあありません。練習だからね。

まず、逆を行くこと。
世の中には、物事が滞りなく進むように人間が前提とする「先入観」「常識」というのがありますが、これが必ずしも当たっているとは限らないというのは皆さん知っての通りですし、モンティ・ホール・ジレンマのように、専門家ですら誤ることもあります。
こういうときにいわれることの一つに「別の視点から見る」ということがいわれるのですが、これは難しいのですね。なぜか。「違う視点って、どこから見たらいいの?」となるからです。これが写真や測量なら別の適当な地点の見当も付くでしょうが、思考という三次元の中は皆々で位置関係や距離が違いますから、客観的に適切な指示はまず無理です。

なので、「逆を行く」という比較的わかりやすい方法を採用します。

社会保障費の増大にしたがって増税の論議があったりしますが、増税云々ではなく、ここでは既定路線として扱われた社会保障費増大の逆を行き、これを削るとかいうところにスタート地点を設定したりします。

若者の○○離れの類では、「離れてない」「むしろくっついてきた」「むしろ若くない」「オッサンも離れてきた」など、何と何を逆と捉えるかによって、複数のテーゼをつくれます。で、これらの主張をどうやって補強するかということをやっていくと、ディベートの技術が付きますが、これはまた別の話ということで。

まずは、「逆を行く」。

次に、同一の結論に達することです。

僕の持ちネタに「赤いものは共産主義者と思え」というのがありまして、赤けりゃ何でも共産主義、スターリンの同志とかといってしまうののですが、これの応用です。

人間は生まれながらにして共産党員である。
資本主義の犬も流れる血は赤い点で、同志となりうる可能性がある。
日本国の中心は、共産主義である。
我々の力は強大である。信号では赤のみが全ての侵攻を止める。
赤いきつねと緑のたぬき。東洋水産の社員の半数は同志である。
太陽は1日1度は我々と同じ色に輝く。「同志、それは落日ですが!」

全て共産主義と結びつけてるわけですが、全て理由は「赤いから」。まあ、バカの一つ覚えなんですが。

で、ここで大事なのは同じ結論に達することなので、たとえば「絵の具のビリジアンは共産主義である」というテーゼを置きます。上記の例と同様に同一の結論に達しようとしましたが、今度は赤くないです。ですので赤いものを見たら共産主義と思うという画一的手法が使えません。なので、様々な点からビリジアンを共産主義と結びつけようという努力をすることになります。僕にはビリジアンを共産主義者であると断じるだけの論理が考えられませんが、別のものなら可能かも知れません。

・若者の○○離れは問題だ→○○離れは「素晴らしい」
・輸出企業の支援が必要だ→輸出企業を支援しないのは「素晴らしい」
・出生率の低下が問題だ→出生率の低下は「素晴らしい」
などなど。

べつにこうだっていいわけですが


・若者の○○離れは問題だ→○○離れは「右から二番目」である
・輸出企業の支援が必要だ→輸出企業を支援しないのは「右から二番目」である
・出生率の低下が問題だ→出生率の低下は「右から二番目」である


わけがわかりませんが、こうやってわけがわからないものを発見し、それに定義を与え、意義を探り、理由付けをする。こういう訓練をしておくと、「地頭力」とはまたひと味違った思考力が付くのではないかと思っています。


茶筒は丸か四角かという議論はできます。横から見れば四角く、上から見れば円いです。
でも、これだけではまだぬるいのです。大事なのはいくつもの可能性を検討することではありますが、いくつもの可能性をいくつ見つけるかというのが非常に大事なのです。
茶筒、斜め上から見れば楕円に見えるはずなのです。楕円は円くも四角くもないでしょう。
「茶筒は四角いんだぜ、ふふん」なんて言ってると、楕円派に足元をすくわれることになりかねません。

2010-06-13

要求に半分合致

Bonjour. 朝でも昼でも使えて便利なご挨拶。

さて、NANOTECのDRY CHAIN LUBEを試してみたのですが、続報。


完全に盆栽向けです。実用では制約が大きいです。


先日数百キロ走った記憶があるのですが、どこまで行ったか覚えてません。
で、今回は続いて700km走行してきました。

鯖サンドを食べたくなったのです。
北陸道下り線(新潟行き)米山SAまで行って参りました。



で、鯖サンドはさておき、主目的のドライルーブのインプレですが、盆栽むきです。なぜか。

保たない。

700km走行して、前回の走行が仮に500kmとしても1200kmなんですが、完全に鉄の地が露出します。ホイールには赤錆色の粉、多分鉄粉なのでしょうが、着いています。チェーンは乾燥してました。
燃費から見るに、潤滑性能が失われていた可能性があります。リッター16kmってほぼ全行程高速道路の割にあまり良くないです。飛ばしてたのもありますが。

長距離走行にはあまり適さないようです。一方、完全に乾くので、長距離を走らない、かつ、見た目重視の盆栽には最適だと思います。

で、今日は、Wakosのチェーンルーブを買ってみました。チェーンガードは良かったんですが、粘度が非常に高くべたつきが非常に高いのと、色が白いので見た目上ちょっとあれなので、最近はド鉄板のクレ スーパーチェーンルブを使ってました。

一応wakos製品で期待はずれだったものはないので、さて、どうなりますやら。

2010-05-30

ジェットエンジン

一度スロットルを緩めたときの再加速のレスポンスが良くないのです。ジェットエンジン。
継続は力なりといいますが、一度中断するとなし崩し的にどうでも良くなっちゃうのが玉に瑕。玉ですらないけど。



原価の話
http://matome.naver.jp/odai/2127374075574714001
原価には開発費とか含まれてないので、原価だけの話をするのは頭悪いです。ラーメン屋のラーメンの原価には店の賃料だの電気代だの入ってないのと一緒。
人間の原価っていくらなんかなあ。人によってはカネかかってたりかかってなかったりするよねw

対談・肉食と草食の日本史 「玉砕」の謎 一夫一婦制と国民皆兵の明治
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/12/news036.html
これは読んだまま放置していた。玉砕できるというのは、自分の命よりも大事なものがあるという価値体系の中にのみ存在するわけで。わかりやすいところで言うとイスラーム。ムジャヒディンは死を恐れない。
日本人は玉砕できたけど、今の日本人は玉砕できるのだろうか。J官はどうか。韓国朝鮮人、中国人はどうか。

ponta
http://www.ponta.jp/c/entry/index.htm
古くは商店街共通ポイント、それからよく見るところではTポイントの、共通ポイント。モバイル版がないし、登録が面倒くさい。docomoが英断を以て公開したおサイフケータイ。この利便性は複数のカードが携帯1個で管理でき、かつ、電子マネーでは完全サイフフリーを実現できる一気通貫性。

1つのgmailを増殖する方法
http://r.nanapi.jp/2424/
増えるねえ。

2010-05-13

福祉、環境整備、雇用、男女共同参画では解決しない


書こうと思ってたら日経に半分くらい書かれた。結局は意識の問題。

1時間かけて書いたらバックアップが競合して消滅したので、脱力したのでここまで。

2010-05-11

沖縄から米軍が退かないわけ

今日は何となくizaで書きました。

 沖縄から米軍が退かないわけ 


非効率行政の打開

政府は都市一極集中、ことに東京一極集中を早急に是正すべき。
更に言えば、首都機能移転は急務。

出生率の改善の足枷のひとつは、都市一極集中。

画像は本日発売の東洋経済から。
んで、待機児童は地方部より都市部・ベッドタウンに多い
保育所入所待機児童数(平成21年10月)について

付け加えて、合計特殊出生率は、地方部で明確に低いとは限らないがその傾向があり、都市部において明確に低い。
平成20年 人口動態統計(確定数)の概況

更に、1人あたり県民所得と出生率とは関係がない。つまり、出生率と収入とは関係がない。
平成19年度県民経済計算の、1人当たり県民所得(50KB)を参照。

2010-05-07

Radio and I

僕とラジオの付き合いは、小学生の頃からでした。いつからつきあい始めたのか知りませんが、小学生のときにはもう聞いていました。いや、それよりちょっと前からかな。

幼稚園の頃でしょうか。家に帰ると、カルビーのポテトチップスの時報で3時が知らせられ、子供電話相談室の時間でした。日課。まさに日課。疑問を差し挟む余地なき日々でした。

小学校にはいるとこれがちょっと変わります。幼稚園のときは近所の「純ちゃん」といっしょにタクシーで幼稚園に行ったのですが、小学生になったらお兄ちゃんですから、歩いて通うのです。始業は8時半。集団登校はたしか7時20分集合だったかな。NHK第一のニュースは7時15分を知らせてくれたのです。だから、それを聞いて、母に家から追い出されていました。6年間。「7時15分です。エヌ、エイチ、ケイ」。

正直言うと、それからラジオは空気だったのです。学校が終わってからは遊びに行ったりテレビを見たりで、ラジオとの関わりは出かける寸前の朝食の時間だけ。時報にはなっていましたが、聴いているのではなく、聞こえているだけでした。1人で朝の支度をする人には、ラジオはオススメです。なにせ、見るものがないから見なくていい。

ラジオとの再会は、風邪がもたらしました。多分中学校に入ってから。分かると思いますが、昼間寝てしまうと夜眠れないのです。暗い部屋で目を閉じていても、眠れないのです。これは退屈で仕方がありません。そして、再びラジオと邂逅と相成りました。確かコサキンだったかなと思います。次にレディクラ

しかし悲しいかな、田舎の学校でラジオリスナーは僕一人のようだったのです。1人の楽しみとなってしまいました。「変態木曜日」にオギオギしつつ、それからぼくは高校生になりました。ここでようやくリスナー登場です。でもレディクラは岸谷五朗が売れっ子になり終了しましたが。伊集院光のOh!デカナイトをオススメしてくれたのは浅野くんです。でも、ごめんな。うち、TBSとNHK第一第二とFEN(現AFN)鹿入らなかったんだよ。文化も、ニッポンも、日本も入らなかった。そうして、僕はコアと言うほどでもないか、TBS好きへと育っていくことになりました。実家には今でも大沢悠里さんのサイン色紙があります。

転機が訪れたのは大学入学でした。大学にはいると一人暮らし。テレビも買えるわけで、独り占めできるわけです。

ラジオはその地位を追われました。そうです。お早うからおやすみまで、暮らしを見つめるのはライオンとテレビになりました。ちょうどこの頃でしょうか。インターネットなる黒船がやってきました。1999年頃だったかな。僕がISDNを入れたのは。東京では東京めたりっくとかいうASDLなんてものがあると聞いて、ISDNが64とか128とか言ってる頃に1.5M(だったと思う)も出すといって、これはとんでもないと感じたのを今でも思い出します。

わたしももれなくインターネットに迷い込み、このときできた人脈は今でも続いています。ってかすごいな。takex、よりくん、蜃気楼くん、SIGMAさん、かかおさん、響くん、見てるか?

ミッドナイトパーティでひとしきり大失敗したTBSラ。パックインミュージック21はそこそこ良かったな。upsも悪くなかったな。いわれれば思い出す番組が結構あったりします。

テレビがあった割にはラジオも聴いていたようです。しかし、これが一変する事態が。引越しです。
鉄筋コンクリートのマンションでは、AMラジオは劇的に入らないのです。そして再度の離脱。

ラジオの世界に帰ってくるのはそれから4年後。高円寺の狭いアパートに引っ越してからです。
狭いのでテレビはやめました。そして白羽の矢がラジオに。

まあ、ラジオはこういう感じです。久しぶりに付けても聞いたことのある番組が流れてくる。視聴率調査からは距離があり、聴取率調査でもそれほど醜くなることもない。テレビにはない魅力と言っていいと思います。テレビ放送がなくなっても別にどうということはないですが、ラジオ放送、ことにAMラジオがなくなったら、国家に打撃を加える用意はしておきたいと思います。

2010-05-05

権利と義務、自由と責任、世間と私、それと、結婚。労働編

養老孟司「無思想の発見」だったと思うが、お葬式の話が出てくる。江戸時代に、故人の遺言に葬式の次第が事細かに記載されていて、それが普通とは相当違うオリジナルの葬式だったため、これをどうしたらいいものかと偉い人に相談したときの話。
その偉い人は「一度普通の葬式をあげて、それからオリジナル葬式をしなさい」ということを言ったと書いてあった。
というのはうろ覚えなので、ぜひ原著をご参照頂きたい。私の手元には今見あたらない。ごめんなさい。

で、なぜこれを引いたかというと、現代日本人の権利と義務、自由と責任に関する意識が、江戸時代のそれよりも劣化しているのではないかという考えに至ったからだ。
上記の例では、オリジナルな葬式をあげることは否定されていない。やって良い。これは権利であり自由に属するもの。その一方で、「普通の葬式をあげよ」と言っていて、私もむしろこちらに着目している。

実は、この例は公と私との違いについての例として挙げられていたもの(だと記憶している)なのだが、自由や権利についても適用あるいは準用できるし、同著でも触れられている「世間基準」にも関係するからだ。寝ようと思ったら結婚にも繋がることが分かったので仕方なく寝ないで書くことにした。

ちなみに、「権利」は「right」からの造語であることが知られるが、明治維新前後には様々な造語がされている

まずは日本人の労働のとらえ方。もんどさん日本の労働は労道となっていると言われ、僕はその現状は追認しつつ、労働に関する考え方が誤りなのではなく、権利義務意識そのものが誤っているからだと説いた。労働に関する考え方もそれに内包されるには違いないが、労働に関するそれだけが誤っているわけではない。もっと根源的な部分から間違っている。イワシは1匹で飼うものではないのだ。

江戸時代の労働には疎いので、助けてgoogle先生のお時間です。
江戸時代の労働に関する各種サイト

調べてみると、雇われの身は悲しいかな、現代とそうそう変わらないようだ。「商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。」「匠大工の人の労働時間は午前6時~午後4時まで。日雇い大工は午前6時~午後8時まで。昼食は2時間かけていたので、匠大工が8時間、日雇い大工は12時間働いていた」。一方、雇われでない身では結構いい加減だったようだ

江戸時代に日曜はないけど一応休みの日の概念はあったのかこういう記述も見つけた。
江戸時代には電気がないんだ。どんなに忙しくたって暗くなれば寝るしかない。残業なんてないしね。交通機関もないから何時間もかけて通勤することもない。 時計がないから分刻みの労働管理もできない。電話で催促されることもない。仕事の密度は、現在とはまるで違うはるかにのんびりしたものだっただろう。と、 詩人の想像力で思うけど。現在のような密度で仕事をさせられたら週休2日でもシンドイが、江戸時代は年2回の休みでもやれるくらいの密度だったんじゃない の。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/museifu/dialogue04.html
電気はなくとも必要なら灯りはあった。でも今ほど安いわけでもなかったろうから、概ねこの主張は筋がいいと思う。とくに、携帯電話はおろか電話すら当時はなかったもんね。台風でも出社するのもよく考えればおかしいし、動いている交通機関もおかしい。ひょっとしたら、世間そのものが機能しなくなっているのかも知れない。

さて、現状と全て総合して考えると、現代日本のサラリーマンはみな丁稚扱いだということにすると、一見矛盾がなくなる。経営から見たら「丁稚があれこれ騒ぐな」だし、労働者からすれば「いつまで丁稚扱いだ」となる。そりゃ大学出てから20年も丁稚奉公しなきゃいけないっていうならおかしいわ。とはいえ、「では明日から独立してやってくれ」と言われてはいそうですかというわけにもいかない。独立してやっていけるだけの能力があるという人はそうそう多くないだろうし、そもそも不満があれば出て行くか。と、これは多分経営者側の見方だ。

一方、労働者の観点に移ると、雇用契約は労働力の売買だ。ビジネスライクだ。

ところで、契約不履行があった場合、大陸法では原則を契約の履行で解決しようと考える。これに対して英米法では損害賠償で解決すればいいと考える。日本は大陸法の系譜なので、契約は契約だから履行しろとなる。これに対する英米法の考え方は実におもしろい。

たとえば、椅子100脚を月末までに1万ドルで納入する契約を結んだとする。一方、テーブル50卓が2万ドルという需要があったとする。このとき、100脚の椅子と50卓のテーブルでは50卓のテーブルの方が1万ドル儲けが多いことになる。これを違う言い方をすると、100脚の椅子より50卓のテーブルの方が1万ドル分社会の利益であると考える。つまり、この例では椅子よりテーブルを売った方が公共の利益に適うのだ。だから、椅子の契約を破棄して損害賠償を支払い、テーブルを売った方が正しいということになるという考えだ。

上記のような、どちらも可能だが両方が可能ではないという場合の契約破棄は上記の通りだが、椅子は作れないがテーブルは作れるという場合、椅子の部分は履行の強制ができないため、結局は損害賠償で決着するしかない。すると、英米法の考えの方が合理的だと考えることができる。

さて、労働に戻る。つまり、労働者に不満があれば、もっと良い条件、給与面かそれ以外の待遇面で好条件のところに移ればよいのでは? という疑問が出てくるはずだ。もっともだ。ビジネスなのだから、サクッと移ってしまえばいい。でも労働者は不満を述べるのが主で、移籍はあまりしない。なぜだろう。

それは、労働が労働者にとって、未だに労働がビジネスではなく奉公であると捉えられているということではなかろうか。ビジネスだったらもっとシビアでいいはずだからだ。もちろん、労使の力の格差というのもあるけれども、転職市場がないというわけではない。

一方、ブルーカラーではそう簡単に転職とは言えなかろう。知識以上に技術は一朝一夕では身に付かない。作業に縛られた封建制とも言えるのかも知れない。これは転職ではなく労働争議によるほかなかろう。

では、このm経営側からは「甘え」と言われても差し支えない不条理感はどこに起因するのか。たぶん、管理できない管理職の無能と、ノブレスオブリジュの欠如にあるのではないか。管理職は部下を適切に管理するのが職責だが、管理とは何かといわれて正鵠を射ることのできる管理職は少ないだろう。じゃあ、管理者の職責って? という問題はドラッカーのマネジメントでも読めば分かるはずなので割愛。リンク先はアマゾンだけどアフィではないです。

現状、管理職がプロフェッショナルではないこと、管理側と被管理側との考えに乖離があること(民主が政権取ったら次々自民と似たようなことをやってるのも考察する上でおもしろい。日本では平から昇格して管理職になるのが政権交代と似る。) あたりに原因を求められるのだろうか。

つか、「労道」なんていってるやつはアマチャンという結論に至りかけたのは相当意外だった。これはお仕置きされかねない。まあ、死なずに生きていくこと自体、一種の自然淘汰の試練場だから、辛くて当たり前なのかも知れない。人生自体人生道とでもいうべきものですよ。モルセッリが言ったとおり、自殺は精神という弱点を抱えた者が自然淘汰される一形態。絶えられないやつは死んじゃう。ラテン野郎みたいに楽しみ方を知ってると楽しめる。日本人は物事を楽しみたくない民族というだけのことかも知れない。

2010-05-03

演繹と帰納

インターネットはサービスではなくて、地球だと考えている。
インターネットの匿名性がどうのこうの言われることがあるが、実社会だって同じだ。同じホテルの隣室の客だって、名前は知らん。違法かどうかは別にして、宿帳に本名を書いているかどうかも分からない。しかし、あしあとを辿ることはできるかも知れない。
ネットだって実社会と変わりはない。

以下、敬称略

勝間 vs ひろゆき 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=gqduJqJuQUs

勝間 vs ひろゆき 2/3
http://www.youtube.com/watch?v=kyxMpFuInSk

勝間 vs ひろゆき 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=uwlKyWP1n2g

勝間(以下K)「どうやってインターネットの中である程度のルールをもって確保するような環境を作りたいかということ」
ひろゆき(以下ひ)「それは教育じゃないですか? 人がどう考えるかであって、別にサービスの提供者がやることではない」
K「まさしくそこですよそこ」
ひ「じゃ、個々の人間がどうするかってことをサービスの提供者の責任にしているのかってことが僕は分からない」
K「そこですよね。そこが私とひろゆきさんの大きな、多分、議論の分かれ目で、私はある程度サービスの提供の場を作ったときには、そこのルールを規定しないと、荒れてしまうと思ってるんですよ」
ひ「そ、荒れるってどういう意味ですか?」
K「実際にじゃ、2ちゃんねるで非常に有益なスレッドもあっておもしろい議論もあれば、まさしくその、なんていうんでしょ、鬱憤晴らしのための、批判であるとか揚げ足取りみたいな、スレッドもたくさんありますよね? それは正しいですか認識として?」
ひ「社会ってそんなもんじゃないですか。居酒屋とか行ったらみんなそんな話してるじゃないですか」

1/3の冒頭だけ抜き出したけど、自分で観察して得た事実から出発しているか、望む姿から出発しているかの違いはここで分かる。

web上の人格とリアルの人格とを紐づけるコストの話がこのあと出てくるが、これも破綻している。だって、コンビニでもの買うときに名乗らないでしょw 高度に発達・細分化の進んだ世界は、反復継続して接触する前提がない限り、匿名だ。
「やまだたろう」と「ななし」の話も、仮に僕がたちばなせいいちではなく「かつまかずよ」とな乗ったらどうかという話だ。もうこの時点で匿名なのだ。名前というのは所詮「識別記号」であって、特に区別する必要がなければなくてよい。名乗ろうとも名乗らずとも結局IPを調べに行くのならば名前なんてあってもなくても良い。

だれも炊飯器の中の米の全てに別々の符号を割り振ったりしない。名前を要求しない。それがたとえば特定の粒だけ見る確度によって色が変わるとか、1粒60kgあるとか、明らかに識別すべき事情があって初めて識別すべきものになる。逆に言うと、あっちが名乗っても識別の必要がなければどうでもいい。

識別すべき必要の有無があるかないか、名乗れと言う人間は的を持てと言うようなものだ。ネットの顕名化論者は一対多ではなく1to1でやろうと言っているだけのこと。でもこの1to1がくせ者で、あっちは既に信者が付いているので実質多数で1人をタコ殴りにすることになる。匿名が卑怯かどうかというには、まずこの点につき考察する必要がある。
K「ひろゆきさんと私に多分ですね、価値観というかポリシーのの違いがあって、それに対して何か議論を、こう、2人で戦わせようとすると、お互いに自分のフィールドに逃げてしまって、で、そのたとえ話が始まって…」
価値観やポリシーが一緒なら「議論」にはならない。「そうですね「そうですね」って、わらっていいとも状態にしかならない。
対話はあり得るだろうけど。
でも、対話しようという雰囲気を僕は感じ取れなかった。僕でない人は「いや、そんなことないよ」というかも知れないけど、もしそういうならちょっとそれを言うのは止して置いた方がいい。と思う。

CM開け冒頭までとりあえず非随意腹筋運動しながら見ると、自分の敷いたレールに乗ってもらいたい勝間とそのレールが安全か破壊検査をするひろゆきとのギャップが酷いのは確定する。というか、どうやっても乗ってもらえてないのであきらめてますが。

ひ「意)老人はカネ持ってるんだから起業して若者雇えばいいじゃないですか」
これもその通りで、老人がベンチャーキャピタルになるとかいうリスクもなくて、基本的に安定したいい場所にいる人が「若者は起業しろ」といっている。この20年間で多くの若者はリスクを取ることができないと学習している。公務員人気なんてその最たるものだ。だって、1年後ご飯食べられないのは誰だっていやだろう。若者は少なくともその蓄えはない。ならば、1年後もご飯を食べる余裕がある層が余りを活用すべきだ。「俺は倉の米出さないけど、お前のとこの畑から米出してこい」といわれて稲刈りして米を出すのはよっぽどのお人好しか、心理的強制がはたらいているかのどちらかだ。

ひろゆきは明確に、かつ複数回「起業したければすればいい」といっている。対偶は、「起業しないのはしたくないからだ」となるが、なぜ経験もカネもある老人がしないものを、どちらもない若者がしなくてはならないのか。カネ出してくれるの? 老人の皆さん。
K「若い人たちが起業する自由が減ってきている」
減ってきてるのは自由ではなく意欲か、あるいは資力か、そういう類のものでしょう。実際のところ、ソフトウェアの開発能力があるような人はつくっている。これは資力(ソフトウェアという無形財産)が既にあって、それに全生活を依存しない収入も別にあるからだろう。なければちょっとできるようなものではない。

日本で企業の新陳代謝がないという勝間の主張に対して、ひろゆきは「大企業が優秀だから」と言った。この結論は僕にはなかった。
イノベーションと陳腐化した産業の切り捨てという「選択と集中」の経営戦略の中にあって、たとえば1から10の事業部があって、「第1事業部は陳腐化したので第11事業部を立ち上げ、新規事業をやります」というような新陳代謝はあり得るかというイメージは持っていた。
たしかに、新製品が次々と出て、旧製品がなくなっていくというのは、森で言えば生長しなくなった木が枯れて、新たな芽が出ているということだ。これを産業に置き換えれば、消滅と発生成長とが大企業の中で両方ともあるわけで、別にこの両方が別の会社でなければいけないなんてことはだれも言っていない。

幸福度の話も抱腹絶倒ものでした。というより、日本人はいつからこんなに浅ましくなったのだろうかということを考えるに至った点で非常に有益でした。江戸時代は日照りや洪水、冷害などで相当の割合の国民が死んだでしょう。
今考えると、平成の米騒動で大量に餓死者が出たとは聞かないし(最近餓死者がでてもそれは似たようなちょっと違う理由です。)、洪水でも何万人とは死なないし、阪神淡路大震災でも1万人死んでない。江戸時代の感覚だったら10段階評価で10付くんじゃないかな。
ひょっとしたら、幸福度の高低は様々なファクターに影響され、そして、ファクターが多すぎて、正確な調査ができてないのではないだろうか。むかし「所さんの笑ってコラえて」に出ていた婆さまが「盆暮れに孫の顔を見られるだけで幸せ」といっていたのを非常に良く、心揺さぶられながら見た覚えがある。幸福度の高低というより、単に、どれだけストレスに晒されているかということと、日本人は欲張りなだけという話なのかも知れない。


で、勝間の「べき」論と、ひろゆきの「そういうもんでしょ」論。西洋の自然観と東洋の自然観とに似ていると感じた。前者は征服主義、後者は共存主義と言い換えられるかも知れない。

前者は理想があって、それ以外は理想ではないという見方で、理想から外れるものの存在を許してない。これに対して、後者は相当ユルくて、理想とほど遠いあってはいけない状態というのがあって、それでなければ合格点でいいじゃないという感じだろうか。「我知足」というか。

で、後者、ひろゆきの価値観が排斥される一因には、思考パターンの西洋化(キリスト教圏化)があるように感じる。規律から世界を作るのと、世界の成り立ちから規律を抽出するのと。演繹と帰納でいいんだっけ。

僕はここに壁があるけどとりあえず壁があるよね、というところからスタートするもので、壁があってはいけないというテーゼからは出発しないので、今回の対談を見る限りでは明確にひろゆきの考えに共感しました。


5/5日追記
勝間和代ブログ 「2chはIPの開示に積極的であるというひろゆきさんの注目発言について」を高木浩光氏が検証したまとめ

実名推進論者はインターネットを書籍だと思ってる。一方、それ以外の多くは社会そのものだと思ってる。だか らずれる。
http://twitter.com/S_T/status/13372852989

名前を出して活動している人の多くは、インターネットを道具としてしか見てないんですね。でも僕は違ってて、インターネットはどこでもドアだと思ってる。どこでもドアで出て行って、名乗らずに(そもそも対面もしてないで)一言言って、帰る。それだけ。だから、顕名でする行為ではない。たぶんひろゆきは僕の考えに近い(はず)。インターネットを道具ではなく社会だと思っている。だから、ああいうふうにずれる。

廃棄物法制を考える

富士に不法投棄の山 不況で業者が発覚後も産廃放置
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100502/CK2010050102000231.html

不法廃棄(産廃・家庭どちらも)については、やったやつへのサンクションが薄い。産廃の場合はやった業者が倒産すれば代執行をしても費用の回収ができない。したがって行政負担になってしまう。かといって、産廃処理業者に負担させるとその分は解体業者などに負担が行く。すると、解体業者は処理業者に委託せず不法投棄をするだろう。これでは意味がないどころかもっと酷くなりうる。

では、解体業者および処理業者に税を課してそれを基金とし、不法投棄の代執行に伴う費用の穴埋めに使うのはどうかというと、これもモラルハザードが立ちふさがる。代執行してもらえるので不法に捨てても良いということになりかねず、改善しない。

すると、思い浮かぶのは不法投棄の厳罰化だ。法人はお取りつぶし、個人は無期懲役まであっても良い。なにしろ、不法投棄をしても大したサンクションがない(経済的・精神的な負の報酬がない)のでやるからなので、「やったら社会的に死ぬ」というのは十分抑止力になりうる。粗暴犯では死刑に抑止力がない場合があるが、経済犯なら本人が生きることを前提にする犯罪なので抑止力は十分にある。

ただ、厳罰化したところでなくなるわけではないだろうから、その、不法投棄されてしまったものをどうして原状回復するかという命題は残る。「不法投棄税」を新設して、不法行為の態様に照らして処理費用を税として徴収するのはあり得る。ただ、不法投棄をやるような所はどのみちヤバイので、実際は役所の持ち出しになってしまう。あまりにも歯がゆい問題だ。

ひとつには産廃処理業者に預け金をさせる手があるだろう。足りそうな額として、仮に5000万円としようか。中小は算入が不可能になるが、「(静岡県廃棄物リサイクル課によると)、放置する業者の大半が今回の建材業者のような中小業者」という現状からすると、中小の参入を阻むことで一定の効果はあるだろう。どうしてもやりたければ寄り集まって大きい規模でやって頂くしかない。
ただし、瓶等のデポジットとは異なり、事業は未来に渡って継続するのが前提だから、預かり金は事実上返還されない。

すると、株式会社での設立を義務づけ、預け金に当たる額は地元の公共団体へ株を預けるという方法もあり得ることになる。これだと株主という立場から強力に是正を求められることになる。

会社法は疎いので、株譲渡制度は法律上いけるのかどうかわからんけど、証拠を残すが故に足が着きにくいという投棄犯罪についてどう対処するのかという問題は非常にややこしいと感じます。

2010-05-02

あなたはこの世に1人か

再び博士の異常な鼎談。

宮崎哲弥氏の見る夢は30になる頃まで視覚がなかったという。ラジオを聴いているような感覚だったとか。

有名な夢と言えばベンゼンの環状構造を提唱したケクレの夢だ。ここでは創作かどうかは検討しない。蛇が自分の尻尾を噛んでぐるぐる回っていたところから環状の発想に行き着いたとか。

おもしろいのは、夢は完全に自分の脳内のみで紡がれるのにもかかわらず、自分ではどうしようもないことだ。思い通りに全てが進んだって良いようなものなのに。

通常、一人称は意識する自分を指す。その一方、自分には思考していることが分からない自分、無意識の自分が存在する。食べ物の好き嫌いをしたり、ウイルス感染時に発熱したり、意識の睡眠中に記憶を整理する、夢を見る自分。

ウイルスは別にしても、好き嫌いには規則性がないし、記憶の整理の方法というのも、意識の自分には全く理解できない。無意識の自分にしか与り知らないところのものだ。

で、こいつは主に僕やあなたが寝ているときに起き出してきて仕事をする。前述の記憶の整理だったり、肉体のメンテだったり、大事なことをしてくれる。やらなければいけない作業というのはそれなりにあるので、それには十分な時間を与える必要がある。つまり、よく寝なければならない。

だから僕は私のこの作業がwell-doneとなるために、可能な限り決まった時刻に決まった時間仕事をしてもらう。起きている間にすることはこの時間にしてもらう仕事を予めかき集めてくるようなものだ。だから、この考え方にたどり着いてからはあまり寝て過ごすことはなくなった。そりゃ休日出勤や早出や長い残業はいやだもの。

思い通りにいかないことの価値

見る夢はフルカラーっていうヨシダプロの言葉を以前に見たことがあった。
ひょんなことで空鼻の話をしたら夢の話になったもので、夢と現実と、少なくとも感覚には区別がないという話から宮崎哲弥の見る夢には視覚情報がなかったという話になり、それでもって博士の異常な鼎談のその回を教えてもらって今視聴了。

一般的に言う天才に属する人と、そうでない人の決定的な違いは脳だろう。ウサイン=ボルトは天才というかどうか。身体的な条件の良さはあくまで除いておく。

僕がバカ話に鼻下まで浸かったのはコサキンの影響だった。バカな話をしているリスナーが3月には合格報告をしていた。みな結構なところに合格したと報告していた。自慢できなさそうな所は報告しなかったのかも知れないけど、それでもなかなかいいところの名前が出ていた。

僕はそこで、「ひょっとしておバカな方が勉強もできるようになるんじゃね?」と仮説を立て、実行してみたが、効果の程は不明である。理由は2つ。まず、こういう発想は天才に属する人はするのか、あるいは凡人はするのか。そもそも僕はどっちか。もう一つ、何を以て効果測定をするか。この2点である。
まだ結論は出していない。そもそもまだ出すには早い。そういうことにしておかないと僕が不憫です。


さて、ずっと見ていたら映画の複数本立ての話になった。2本立てとか5本立てとか。5本立てだとこの映画は大便なんだけど、その次がおもしろそうなんだよなあ、と、そのクソ映画も見てしまって、それが後々糧になるだとか、2本立てのお目当ての方よりそうでない方がおもしろかった話とか。

人生思い通りにいかない方が良いということだってあるのだ。
そもそも、思い通りにいかない物なのだ。思い通りにいくのは幸運であり、場合によっては不幸でもある。

良い結果を欲して、果たしてその通りの結果が得られたら幸福か。答えはどちらとも言えると言うべきだ。欲しなかった結果ではなかったという意味に於いて前者であり、その程度の結果しか得られなかったという意味に於いて後者である。

フレミングの実験が思った通りに終わっていたら、ペニシリンは見つからなかっただろう。
マクスウェルの方程式が古典物理の通りのものだったら、相対性理論にたどり着くのはもっと遅れただろう。

予定通り、思い通りでないからこそ得られる幸運というのがきっとあるはずだ。

子供が思い通りにならないから虐待する、電車が予定通りでないので暴れる、相手の対応が予想と違うのでキレる。そういう話を頻繁に聞くようになってしまったが、そもそも世の中に思い通りになるものってそんなにない。首だって自由に動くと見せかけて、左右90度くらいしか動かない。3回転とかはしない。思い通りになるものなんて何もないといって差し支えないのではなかろうか。

だから、思い通りにならないから腹を立てるのではなく、思い通りにいったら素晴らしいと思うべきだ。JAXAの衛星「はやぶさ」の帰還を揶揄する論調を見た。「失敗なのに感動仕立てにしやがって」と。自動車ですら設計通りにいかないことがあるのに、宇宙船なら尚更だろう。着々と帰ってきているだけでも「思い通り」。素晴らしいと考えて良い。だって、理屈の上では上手く行くという「思いこみ」を実行しているわけで、上手く行く根拠はその「思いこみ」にしかないのだ。一種の実験。実験なのだから、意図しない結果があってもおかしくない。

都市化にともなって次々産み出された都市型思考の人間はこういうことを理解してくれない。予想どおりにいったのは当たり前でも何でもなくて、上手くいっただけのことですよ。

意図しない会話から意図しない動画に出くわすことになり、意図しない一言に出会って、実に幸福を堪能しました。思い通りにしか物事が進まないのなら、この幸福はなかった。

2010-05-01

○○詐欺(地球温暖化の巻)

http://www.google.co.jp/search?num=30&q=地球温暖化詐欺
(実際に表示されている物は異なります)

無駄遣いしないのはよいことだけど、無駄遣いしないために無駄遣いするのってどうなのか。

アルゴアの「不都合な真実」だっけ。あれ以降CO2で地球温暖化っていうのが誰も疑わない既定路線になった。

でも冷静に考えてみる。貝塚ってそれなりに高いところで見つかってるよね。温暖化で水面上昇が起こるというのならば、そのころはそれだけ暖かかったわけで。それ以降、なにゆえ地球は寒冷化したのか。そこら辺がどれだけ研究されたのか。

イノベーションや新規開発は必要とはいえ、

中学の頃からずっと使っていたシャーペンがあって、芯を繰り出すところのプラスチックが古くなったせいか割れて使えなくなった。

http://moonpaste.net/stmg/column/070301.htmlの「KNOCK PENCIL (RUBBER 100)」ってやつ。これのみどり。

惜しいながらも捨てたんだけど、同じものが欲しいなあと思ってググった。

廃盤ですよ奥さん。

絶望ですよ。あんな良いものが廃盤ですよ。しかも8年気付かなかったのか俺。

懐古主義はあまり誉められたものじゃないけど、それでも良いものがなくなるというのは切ないものです。限定数量で復活してもらえないものでしょうか。

上手く行くのか失敗するのか

休止の銚子市立病院が再開 地域医療が再生へ
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050101000286.html
公設民営方式で、病院経営や医師確保は新設の医療法人財団が担う。
とのことだ。

で、たとえばこのあたりも併せて読んで頂きたい。
http://gurikenblog.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1d51.html
http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100113/9

すると、幾分問題点が見えてくる。
民間で黒字でできるなら公営である必要がそもそもない。
だから基本的に赤字となるものをやらねばならない。
給与待遇面で病院に勤務地としての魅力がない。
病院にそもそも代わりがある。
などなど。

潰した病院が復活というのは寡聞にして聞いたことがないので、公設病院がこれからどういうふうになっていくかという貴重な例になるのかと思います。

とりあえず市長は「モンペ(モンスターペイシェント)が現れて医師が疲弊するようなことがあれば潰すよ」くらいのことは言っておいても良いのではないかと思います。

どことどこを比較しての格差か

以前は違憲だと思っていなかったんだけれど、いろいろと考えるようになってきた。

1票の格差、札幌高裁は「合憲」 昨年の衆院選
判決理由で井上哲男裁判長は、格差の要因で、人口と関係なく都道府 県に1議席を配分する「1人別枠方式」について、「人口の少ない県に住む国民の意思を十分に国政に反映させることを目的としており、一定の合理性を有す る」と判断。
http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010042701000469.html

4月27日の判決だけど、まだ裁判例として掲載されていないのが残念。是非とも原典に触れたい。

さて、以前はこう考えていたので違憲とかどうでもいいと考えていた。
・同じ選挙区の中にあっては皆同じ1票だし、他の選挙区に投票できるわけではないので比較すること自体が無意味。
・投票したい候補がそもそもいない選挙区ではどうしようもない。このときは一体何をどうして不満を表せばよいのか。
という理由からである。

「あっちは10万人で1人の代議士を国政に送り込めるのに、こっちは30万人でようやく1人。この差は何?」 ということに気付いたのは情けないながら最近のこと。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。

個人的には札幌高裁の見解に賛成する。それは、私が一極集中反対論者だからだ。

東京都、1300万人を突破 区部の人口増目立つ http://www.asahi.com/national/update/0428/TKY201004280097.html
 人口が1億3千万いないこの国の人口の1割が東京都にいる。国勢調査がしばらく前なのでちょっと資料としての鮮度が落ちるが、東京都特別区の常住人口は平成17年現在835万人だ。(http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/jutsu1/00/03.htm)

450万人程度が市部に住んでいることになる。

ここでちょっと想像してみる。おおむね23区の住人は市部の倍だ。単純に全員の票を平等に割り振ると、区部は市部の倍の議員を都政に送り込めることになる。すると、単純に2/3は区部の議員、1/3は市部の議員。平等の名の下に伊豆諸島・小笠原諸島の議員は1人もいなくなるかも知れない。

2/3を掌握すれば区部の議員は結託して市部にあれこれを押しつけることが可能になる。昔江東vs杉並連合ゴミ戦争みたいなのがあったが、「よし、狛江に焼却場作ろうぜ。23区は狭くて辛くて大変なのよ」となったら、市部の住民は我慢して頂くことになる。これって平等なのだろうか。


全国で考えてみる。鳥取の人口は60万弱。2人の選挙区にしよう。茨城県は300万弱だから10人の選挙区になる。東京都は1300万だから45人くらいかな。東京都の人口はおおむね日本全体の1割なので、衆院の定数が480であることと合わせるとだいたいこんなもん。人口30万につき1人程度となる。

田舎の人間からしたら都会はズルいですよ。人が多いので回収が容易なため、民間のどんどん投資が進む。田舎は人がいないからインフラが来ない。都会は人が多いため人材を求めて求人も集まる。地方から人間を吸い上げる。人が多く税収もあるため公共サービスもそれなりにできる。


一方、無駄遣いもするわけです。
過密のために溢れた交通インフラの拡充・補強のため、地方なら数十億でできる公共事業に数千億も投じられる。どう考えても無駄ですよね。

その上、代議士の数も多くなると言うんだったら数の暴力じゃないですか?
生活が便利なんだから少しは黙ってろと言いたい。
こういうと、田舎の人間に対して「お前が引っ越せ」と言うんだろうけどさ、
そうしたら農業政策ズタズタになるでしょ。極端な話、都市部に日本の人口の9割、地方に1割になったらどうよ。そんな状況下で地方に税金が投入されるわけがないじゃない。

単純に農地面積や山林面積を勘案した可居住面積で代議士を割り振ってもいいんじゃないですか。

個人的には、都会の住人は(たとえば4代住んでる人を除いては)もっと軽視して、地方に人が散らばるような政策を実行してもよいと思います。安全保障の面からも。だって、田舎で大地震があってもそんなに人は死なないでしょ。今の東京だったら1万人は死ぬよ。これが東京の人口が半分になれば、5000人で済むわけです。

1票の格差に不満がある人は、是非引越しすることをオススメします。おまえらどうせニワカ都会民なんだろ? 中国と違って日本には住居移転の自由がありますので。

2010-04-25

次回予告

都市ガスとプロパンガスが初めでした

同じこと、違うことの価値

変わること、変わらないことの価値

2010-04-22

日本人を考える

日本人の気性や特性についていろいろと思案していると、気候・風土が国民性の醸成に大きく寄与しているという考えが頭をもたげてきている。というか、気候風土が影響するのは当たり前っちゃ当たり前か。

日本人の特性として、私が認識しているところをいくつか挙げてみると、
改良が得意
新しく画期的なものを作るのは得意でない。
小さく作るのが得意、緻密で細かいディテールに定評がある
社会を変える「仕組み」を作るのは上手くない、戦略性・ビジョンに欠ける
時間に正確


こんなところだろうか。あくまで主観なので、いろいろと外れているところがあるかも知れないし、足りないところがあるとは思うが、そこはもし読んでる人がいたら指摘していただけると嬉しい。

んで、これらは皆気候風土の賜物だと捉えている。美醜両面で。

改良が得意なのは地理的条件によると考える。つまり、大陸から途絶されており、技術や思想、あるいは道具や器械そのものが容易く入ってくることはない。そのため、その仕組み自体に詳しくなる必要があった。直すか、コピーをしなければ困るからだ。仕組みが分かれば、あとは好きなように改造できる。だから改良が得意なのだ。

新しく画期的なことが苦手なのは、自然災害のせいである。地震で壊れる、火災で燃える、洪水で流される。台風で吹き飛ぶ。元に戻すだけで精一杯だ。そして、戻せば事が足りる。
それに、自然が豊かだったので新たな何かを開発する必然に迫られることもなかったのではないか。
ここらへんは「余裕ができれば新しいものが生まれる」というのと矛盾する。日本の上流階級はおおむね文学や音楽に傾倒し、発明などには傾倒しなかった。数学や物理等の実学や発明改良が発展したのは武家社会となった鎌倉時代より後だ。(鍬や万能は室町より後だったと記憶)。
なぜ日本には錬金術の影響が薄いのだろうか。

小さく作るのが得意なのはよく分からないが、「改良」で述べたところの仕組みを学ぶ姿勢にあったのではないかと推測する。改良や複製には、そのものの本質を掴む必要がある。小さく作るというのは、一種エッセンスの抽出とも言える。地理的条件が本質の理解の能力に影響しているのではなかろうか。

「仕組み」が苦手。というのはここ最近という気がしないでもないが、言い換えると「戦略」と、インフラの把握だ。ここら辺は今だとアップルがうまい。ipodは携帯型フラッシュメモリプレイヤーだが、このキモはitunesだ。itunesを中心とした「仕組み」に足りなかったのが端末だったので、アップルはその端末を作ったに過ぎない。iphoneも同様だ。
太平洋戦争で機動艦隊が空母時代の幕開けとなった。これは今では画期的だと捉えられているが、当時の日本軍は大艦巨砲主義からの脱却は結局できなかった。価値観をひっくり返す事自体は、日本人もできるのだが、枠組みそれ自体を意識して作って利用することとなるとさっぱりと言ってよさそうだ。
やはりこれも自然の厳しさゆえなのだろうか。自然が破壊するので理想を推し進めるよりも現状に即して構築していくという、悪くいえば「場当たり的」な対応が最善と捉えているのだろうか。

時間に正確なのも、四季と自然災害のゆえだろう。
早く種まきをしないと梅雨になる。暑くなる、台風が来る、冬になる。のんびりしている時間はない。時間に厳しくなるのは当然だという気がする。

まだまだ考察が甘いけども、検証のしようもないのでこのあたりにしておく。

2010-04-17

人の神経を逆撫でする思考、ファンにする思考

「素直になれなくて」とかいうドラマが始まったそうである。なお、私はノンフィクションばかりに興味が行く人なので、フィクションはまず見ない。見るとしても、人の極限状態の心理を描くサスペンスものがせいぜい。

とあるTwitter ドラマ脚本家の本音

で、その脚本家がやらかした。批判をするのは簡単で単純でかつ非生産的、言い換えると時間をカスにする行為なので、可能な限り発展的に創造的に分析しつつ、批判があったときに如何にそれを的確に捌くかということを考えたい。

まず、何をしくじったかどうかという点は措き、批判があったという事実はとりあえず認めるべきである。論理がどうであれ、不快に感じるということは肯んぜざることなき事実であるからだ。それを相手の狭量さなどで理由付けをしてしまうのは下策である。TOYOTAがプリウスのブレーキ騒動でやったのと同じ手口だ。

TOYOTAの場合は「フィーリングの問題」という一言で片づけさせてしまった。これはこれでエンジニアの理解としては正しいのだろう。しかし、「問題」という単語を用いることで暗に「そう感じる方が悪い」というニュアンスを出してしまったことがひとつの問題、もう一つは「フィーリング」というどうしようもないものを持ちだして歩み寄る態度を見せようとしなかったことが問題だった。「動作自体は我々の想定通りであって、ここに問題はなかったのですが、今までのクルマとのフィーリングの違いについてご理解いただくことについて手を抜いたため、不安に感じさせてしまった」と言っておけば良かった。

さて、不満や反論が出てきた場合は、相手が仇敵であって、論破のみが利益なら反撃すべきだ。しかし、通常、まずはそういう意見の存在を受け入れなくてはいけない。速攻で反撃に出るのはよほどの場合を除いては下策だからだ。ここで気をつけるのは、意見そのものを丸飲みすることは必要ではないということだ。ここで受け入れるのはそういう意見が存在するということ、そして、そういう意見が存在するからにはそれなりの理由があるのだろうと気付くことだ。あとはここを深掘りすることで関係が好転するような解決策へと向かうことができるようになる。

社会においては、意見は対立しているけれども相互に利益を受ける関係というのは非常に多い。TOYOTAとユーザーは意見は対立したが、持ちつ持たれつの関係であることに異論は無かろう。脚本家と視聴者の間にあっても、それは同じはずだ。おもしろいものを提供し、それを視聴者が楽しむことによって、脚本家も良い評価を受ける。そういう共生関係にあっては、先ずは相手の意見の存在を受容することが先決である。

次に、失敗を正当化してはいけないということだ。失敗は失敗。次は上手くやる。それだけでいい。弁解して正当化することは通常火に油を注ぐという結果を招く。

3つめ。「おまえもな」「お前が言うな」は反撃でやってはいけない。なぜなら、これも自己正当化だからだ。もう一つ、批判反論は多くの場合上からの目線でなされる。これに対して「分かってないっていうけど、あんたも分かってるっていうの?」は火にガソリン。なぜなら、その視点の更に上を行こうとする行為であって、批判や指摘をした人の自尊心を損ねるからだ。反論をするのであれば、自分の視点がどこにあるかを真剣に探りつつしなければいけない。また、有名人に属する人間は、普通に接しても傲慢だと取られやすい。この点についてきちんと補正を施さなければいけない。

「別に、ツイッターってそんな大したもんじゃないでしょ?人のかたわらに、ぼくを使って、便利に。ってある、それくらいのもんでしょってことが言い たいわけです。」という文には2つマズいところがある。4つめは、相手が評価しているものを貶すなということ。5つめは、理解していないものを貶すなということ。非難する側には「全部は分からんが、どうやらツイッターは相当の可能性がある」と思っているかどうかは知らないが、とにかく評価はしている。それを貶すのは宣戦布告である。だから、してはいけない。分かってないものを貶すのもやぶ蛇だ。「分かってないのに批判するな」といわれるに決まっているからだ。分からないのに貶して良いのは、解説がわかりにくいときにその解説の拙さを批判するときに限る。

「そんなことはないんだよ。そういう悲しい一面的な考え方って、人生がつまらないじゃないですか?」も失言だ。「ない」というネガティブワードを用いた上で、「悲しい」「一面的」「人生がつまらない」と、批判した人間の人格を攻撃した。愚策である。説得をするつもりであれば最もやってはいけないことだ。言い換えるのであれば、「ご指摘のように取られたのであれば残念です。可能ならばアッパーに、複数の考え方で捉えていただければ良かったし、そうできなかった点に至らなさを感じています」とでもするのが良かった。相手を攻撃してはいけないのだ。相手に責任転嫁をしたいときにこそ、相手の攻撃は自分の感じ方として、相手にいいたいことは願望として、願望というわがままは自分の力不足として、相手に言葉を投げつけるのではなく、相手にくみ取らせるという手法を使うべきだった。6個目と7個目の失策である。

失望すべきは、物書きが自分の書いたことに責任感を全く持っていなかったということだ。ツイッターを話題にしたドラマという時点で、話題のものの名前だけうまいこと便乗してメシウマを目論んでいるという風に多くの人間が感じたはずなのだ。果たしてそうだった。こういうふうに感じさせてしまった時点で相当のディスアドバンテージだったのだ。騒ぎを好まないのであれば不用意な発言を避けるべきだし、即座に失言を認めておけばここまで注目を浴びることはなかっただろう。


フィクションには興味はないのだが、やりとり事態はノンフィクションでおもしろかったので、危機管理という視点から書いてみました。

2010-04-12

目指したもの

昔、カメラは二眼かレンジファインダーで、これは視差(パララックス)が避けられなかった。実際にフィルムに届く光とは別の光を見ながら、フィルムに届く光を調整しなくてはいけなかった。

これを解決したのが一眼レフ。カメラ内部にペンタプリズムとミラーを内蔵して、シャッターを切る前はフィルムに行く光を見ながら構図やら明るさやらピントやらを調整できる。ただし、フィルムに届く光をミラーでインターセプトしているので、シャッターを切って感光させるときにはミラーが跳ね上がって、その瞬間はファインダーからは何も見えない。一眼レフの宿命。

で、マイクロフォーサーズ(m4/3)の一号機としてPanasonicのDMC-G1が出た。それ以降矢継ぎ早にPanasonicはm4/3機を投入している。OlympusもPen E-P1の投入以降3機種を送り込んだ。PEN-FTがデジカメになったら絶対買うと吹聴してみたら数日後に発売という話があったので半分歓喜、半分しまったと思いつつ予約。10万だったら、他に先につぎ込むところがあるでしょ俺。

そりゃコスパを考えたら別のやつ、具体的にいうとパナのやつの方が良かったんだけど、僕はPEN-FTの思想と形とが好きだった。形状と思想というパフォーマンスを評価した。あとは、それまでのデジカメでもファインダーはあったけど、実際は液晶見ながら撮るよねという観察の結果も勘案していた。

「見たままに撮れる」のが一眼の要諦だとすれば、今までの全てのデジカメは、液晶画面をファインダーとして利用する限り全て一眼形式だったわけだ。m4/3は、レンズ交換式という一眼とは「無関係」な要素をコンデジの世界に取り込んだ。一眼レフとレンズ交換式は事実上セットだけど、レンズ交換式は須く一眼レフであるべきとはならないのがキモ。

で、ふと理解した。「一眼」と呼ばれるには、覗き込み式ファインダーと交換可能なレンズの両方が必要なようだ。厳密に言うとe-p1は一眼じゃない。まさにレンズ交換式コンデジ。


さて、そんなことにも気付かずE-P1を買ってしまったアレがナニなわたしですが、m4/3のフランジバック(感光部とレンズマウント部の後端との距離)の短さに可能性を感じたのですよ。ここの距離が短ければ、スペーサーを挟むことでもっとフランジバックの長いレンズが使えます。まさにレンズ沼まっしぐら。いろんなレンズを使うことが可能。実際は標準レンズでだいたい満足してます。新しいレンズ、欲しいと言えば欲しいけど、むしろ無いからこれをどうしようかと知恵を捻ったりするのもまた楽しいもので。


昔は、写真は主に紙で鑑賞するものでした。写真展でもポジフィルムを映写して展示って見たことがないし。紙に焼いて見るものを、紙の上ではなく光をそのまま見ていたわけです。

今ではデジタルフォトフレームだったり液晶画面だったりでの鑑賞の方が主流ではないかと感じてます。で、ファインダー自体も液晶。鑑賞手段とファインダーとが一致することになるわけです。昔よりも見たままを撮ることができて、鑑賞するままに撮ることができる。
EVF方式への移行は自然な流れだと思っております。

壊れちゃうと簡単に直せないものへと道具が変わっていくのは残念といえば残念ですが。

ということを、考えておりました。
http://j.mp/ddhbCl 日経エレクトロニクスより

食糧問題解決の可能性

日本人の腸だけに存在?:海藻を消化する細菌

http://wiredvision.jp/news/201004/2010040923.html

一部の日本人の腸には、海草類に含まれる炭水化物(セルロース?)を分解する酵素があるそうだ。
ただし、次の記述を読む限りでは、これは先天的な特性ではなく、食べるものによって後天的に獲得することができるらしい。つまり、日本人に固有の性質ではないということで、世界中の誰もが後天的に獲得できる可能性があるということ。
Czjzek氏は語る。「昔は海藻は殺菌されていなかった。現代では海藻は、火を使って準備され料理されるので、こういった移転が起こる可能性はかなり 低い
確かに昆布巻きもヒジキも煮てしまうし、出汁昆布も一度煮立てる。乾燥ワカメに細菌が生きている可能性は限りなく低いし、最近売っている海苔は焼き海苔ばかりで、そこに細菌が生きている可能性はなかろう。

だが例外はあるもので、思いつく限りで3つの可能性はあった。1つは出汁昆布。出汁昆布は煮て殺菌してしまうと大事な旨味が逃げてしまうから煮ていないはずだし、昆布にはたいてい「汚れていたら拭いてから使え」とあるとおり、洗ってもいないはずだ。

次は、塩蔵ワカメ。ワカメは火を通すと色が鮮やかな緑色になるが、言い換えると未加熱の状態で流通しているということだ。海水中で生存している細菌なら、塩分には強い可能性はある。

終いが海苔。最近でこそ海苔と言えば焼き海苔ばかり(佃煮海苔はさすがに煮てしまっているので除外)。それでもなお一部では干しのりがまだ入手可能だ。干しのりは簡単に見分けられる。明かりにかざしてみて、真緑なら焼き海苔だが、干し海苔なら紫がかった部分があるはずだ。

干し海苔は今でこそマイナーだが、昆布とワカメはまだまだポピュラーだから、Czjzek氏が日本に来ることがあれば、僕と同じことに気付くかも知れない。

2010-04-11

アドバイスは分かってる人に貰う

今日は前の職場の友だちとゴルフ練習場へ。練習場は3年以上行ってない。
教えて貰ったらちゃんと打てるようになりました。
教わるならできる人に。

2010-04-09

少子化対策に本当に必要なもの


少子化対策は選択的夫婦別姓、子ども手当て、男女共同参画、育児休暇の充実、待機児童の解消などという「小手先」の施策で解消するものではない。小田嶋 隆氏はここらへんのうちのひとつを看破している。


子ども手当も、あれは、必ずしも現実の子供のための施策ではない。(略)

少なくとも、少子化対策ではない。

的外れだ。

というのも、少子化は、子供の問題ではなくて、父母の問題だからだ。 
子供は勝手にそこら辺から生えて来るものではなく、明確にその意志を持った人間によって"生産"される。だから、新たに生まれてくる子どもが少ないというのは、まだ2人以上の父母になってない人間の問題。

次に、子供手当て自体はこれから出産しようという人向けではなく、実質的に既に出産を終えた人向けの施策であるということだ。子供手当てがあるからといって子作りに励むカップルが果たしているだろうか。マスコミのインタビューも既に子どもがいる人間向けに終始していた感がある。大事なのは今生きてる子供が育つことじゃない。新たに生まれてくる子どもが増えることだ。誰もそこに突っ込まない。
父母候補であるところの若い人たちの人生観の問題――というよりも、少子化は、「若者の○○離れ」という言い方で総称される広範な現象のうちのひ とつなのだ。

「若者の野球離れ」「若者の活字離れ」「若者のビール離れ」「若者の結婚式離れ」「若者のクルマ離れ」……と、あまたある若い人たちの消極化傾向のひと つに、「子供離れ」(あるいは結婚および出産離れ)がある、と、そう考えなければならない。

人間離れではない。が、若者は、若者離れしている。まるで老後の子供みたいに。

原因は、おそらく、彼らの未来に希望が見えないからだ。

必ずしも、貧しさそれ自体が、彼らをシュリンクさせているのではない。
「死に至る病」そのものですね。

四十年前の若者は、いまの若者と比べて、より貧しかった。が、その彼らは、いまの若者よりもずっと消費的で、より活発で、享楽的で、楽天的で、宵 越しの金を持たなかった。

なぜか。それは、彼らが「右肩上がりの未来」を信じていたからだ。現在は貧しくても、明日は今日より良い日になる、と、そういうふうに、時系列に沿っ て、あらゆる事態を楽観していたからだ。

が、現代の若者は、先行きにあまり期待していない。

先すぼまりの感じを抱いている。
まさに正鵠ど真ん中。戦争直後、広島と長崎には最強最悪の兵器「核爆弾」の爪痕が残り、今では人口800万を擁する東京都特別区も焼け野原。食料はコンビニの廃棄弁当なんて想像もつかない状況だったろう。今では少なくとも芋がらを食べようとは思わない。

でも、少なくとも働いたら働いただけ暮らしは良くなると信じることはできた。周りは焼け野原なので当然といえば当然かも知れない。更に悪くなるということはあるとしても富士山大噴火か、日本沈没くらいのものだろう。


お国が、本当に少子化をどうにかしたいのであれば、なによりも先にまず、若年層に向けた安定雇用の施策を打ち出さねばならないはずだ。

少なくとも、若者が若者らしい浪費に邁進できる未来を、たしかなビジョンとして提示すべきだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100408/213891/?P=4


少子化、高齢化、地方経済の低迷、税収、年金、待機児童問題、子育ての孤立化、などなど、いろいろな問題はあるだろう。

ただ、そのうち少子化に関する問題は雇用と収入の安定で改善可能な問題だということだ。雇用と収入が安定すれば、将来設計ができる。何が何でも子どもは欲しくないという人間はそうそう多くはないだろう。余裕があれば持ちたいのが人間だろう。
あるいは、発想を変えてみよう。出生率が高いのは子供にも労働力が求められる途上国が多い。ならば、子供も働かさないと生きていけないような苛烈な国家を目指してはどうだろう。少なくとも出生率は上がるだろう。そんな国はまっぴらゴメンだけど。


と書いている間に、関係性のある2つの記事。

ある日の取材帰り、電車の中で隣に並んだリクルートスーツ姿の女子2人が、大きな声で話していました。

「落ちた企業の商品なんて、もう絶対買わないよね」

「あんな会社、もう社名すら見たくない」

未来の日本や消費を担う学生たちに、そう言わしめるような就活でいいのでしょうか。


こうして消費意欲を減退させて一体何になるのか。人を採る方の年寄り層は、既得権益を捨てて何が本当に自社のためになるのか、自国のためになるのか、深く考えた方がいい。

でも、私たちには本当にそんな余裕はなくて、こと経済面に関しては夢なんて見ていられないということくらい、この消費傾向を見て分かってほしい。 私たちは別に、車や酒を嫌っているわけではないのです。手に入るならほしい、けれど今の私たちにはその代償を支払う余力がない。ただただそんなシンプルな 理由で避けているだけです。そんなこと、きっととっくに分かっているのでしょうけれどね。分かっていて知らぬ振りを決め込んでいるんだ。

そして、私個人として願っていることは、これ以上私たちにまとわりつかないでほしい、ということです。もはや、私たちや私たちに近い世代全員を助 けろとは言わない。ただ、バブルという海溝の向こう側にいながら、私たちを『若者亡国論』の首謀者に仕立て上げようとするその企みを再生産しないでほし い。あなたたちが私たちを勝手に分類し、ラベリングして貶め、過度な期待=重荷を負わせ、役立たないアドバイスを押しつけないでほしい。そういう言説を読 む度に私はえらくしんどい気分になってしまって、たまにはこういう質の怒りをはっきり表明しておきたいと思いました。


2つはどちらとも消費性向に関する論述だけれども、別に子供だってクルマや酒と何ら変わらない。それと関わり合い、ともに時間を過ごし、楽しむという点において。

大事なのは、お偉方が自らの報酬を削ってでも若年層に安定した雇用と収入を約束することだ。多少削れば1つの企業で3人は雇えるだろう。多額の役員報酬を支払っている企業がみな数人雇用を増やすだけでちょっとは違うはずだ。

「法人税下げてくれ」だけじゃなく、「人雇うから法人税下げてくれ」くらいのバーターはあっても良いんじゃない?

2010-04-04

cherry blossom scattered

いつからか「折角だから」という動機を積極的に使うようになった。それ以前はそういう理由では決して動かなかった。何かにかこつけて、やらない子供だった。

人生なんて死ぬまでの暇つぶし。しなくて我慢できる人はしないで良いし、我慢できない人はしたらいい。我慢できるとしても我慢しなくても良い。畢竟、好きにするべきだ。


バイクもカメラもやるものの、バイクの写真はほとんど撮っていない。自分で撮影するというのは、原則として「自分の視覚を切り取って保存」ということだ。一人称視点のスクリーンショット。僕にとって僕のバイク自体は一人称に属するものだから、被写体にするという視点はあんまりなかった。ひょっとしたら、心境の変化というヤツなのかも知れない。


自動車とバイクとは根本的に異なる。バイクの方がおおむね汎用的でないし実用性もない。つまり、趣味性が高い。悪意を持って言えば「無駄なもの」。よく言えば「あそび」。キリストは、人はパンのみにて生くるにあらずとおっしゃったそうだが、バイクは僕にとってパン以外のもののひとつである。


適当に歩き回って少しでも興味を持ったら触れてみるのがいい。一期一会。せっかくの機会だから楽しまなくてはもったいない。そうして、見たことも名を知りもしない物に出会う。
これは何という木でしょうか。


写真の構図で俗に「日の丸構図」というのがある。馬鹿にされる。理由は、全体を収めようとしてしまうため、被写体は小さくこぢんまりしてしまって、それでいて背景ばかり大きくなってしまい、つまらなくなってしまうからだ。
これを避けるのは簡単。まず、全体にピントは合わないとあきらめてしまう。もちろん、最近のカメラは優秀だから、自動で全部の被写体にピントを合わせてくれる。合わせてくれるんだけど、合わないものだと認識しておくのが先。露出だって全部について最良というわけにはなかなか行かない。(だからハイキー/ローキーで遊べるわけだけど。)

具体的には、次のようなやり方から徐々に自分の好みの構図やピントの合わせ方を感じていけばいい。

1)まず日の丸構図に構えて、シャッターを半押しにする。これで、大概のカメラではピントと明るさが固定される。
2)あとはピントのあった場所を中心から外すだけ。

あとは、寄って短いシャッタースピードで撮る。これだとピントの合う距離(被写界深度)が薄くなるため、撮りたいものだけにピントが合い、写したくない物をぼかせる利点がある。

恥ずかしげもなく自分で写した写真を他人の目の触れるところに置いてみたりしているが、それでもやってるのは上に書いたことだけ。もし僕の写真を上手いと思ってくれたなら、真似して下さい。やってみたら簡単だと分かりますから。


種では増えないはずのソメイヨシノでも、株によって開花のタイミングが違う。十人十色、百花百様なのですね。たとえわかりにくくとも、多少の違いはあるものですね。

Wendy's 日本再上陸祈願

2009年の大晦日を以て、ダイエーの大内功氏(功の右は刀)が日本に持ち込んだWendy'sが日本から撤退しました。
もう3か月です。

バーガーキングも撤退前に良く行っていたものです。記憶とはズルいもので、撤退前の方が美味しかったように感じてしまっております。

私が初めて自分で買って食べたハンバーガーは、Wendy'sでした。赤髪に白い顔のあいつがマスコットのアレではなく。
記憶に誤りがなければ飯田橋店でした。神楽坂下から少し登って右側。
正確に言うとハンバーガーではなくチキンサンドでしたが。

うむ。敢えて申し上げる。We hope Wendy's coming back to Japan !
スーパーメガウェンディーズ、チリポテト、たぶんみんな待っています。

とりあえずハッシュタグだけ設定してみます。
別に署名を集めてどうこうしようとか、たくさんRTされたらどこかの企業にお願いするというわけでも、
私がフランチャイザーをやるわけでもありませんが、
ウェンディーズが懐かしくなったら是非お遣い下さい。
ビジネスですから、儲かると思えば再上陸させてくれるところがあるかも知れません。
そのときを願って、

#wendysbk2jp

2010-04-03

regulars and irregulers solution

夕べちょっとばかりおもしろいことがあった。

正社員か否かで世の中を二分しても、何も解決しません。どのような立場でも誇りを持って安心して働ける世の中にするために、あなたは正社員を憎むだけですか? RT @: 残念な小島さんのコメント、フリーの人間は日々生きるために真剣なんだよ。(一部誤字訂正)
 ちなみにこの翌日、小島のオジキはフリー予定と報じられた。



個人事業者、中小、ベンチャーはみんな非正規なので、世界を正規非正規の2つに割って、非正規は可哀想な人と一緒くたに括るのは、あまりよろしいとは思わない。農家も漁師もおおむね非正規だろう。

なんだかんだいって、人生は優勝劣敗である。助け合いだとか思いやりなんてものは「幻想」だ。福祉なんていうのも同じ類のものだ。弱者救済のためのものなんかじゃない。"Friend in need is friend indeed."なんてことわざがあるが、あなたが辛いときに助けてくれるのはほんのひとつまみの人間だ。具体的にいえば地球上に4人いないだろう。大概は「頑張って」というだけで、決して手は伸ばさない。肉体的あるいは精神的にタフでなかったら、普通の生き方はあきらめて頂くしかない。

「どのような立場でも誇りを持って安心して働ける世の中」などというものは、北朝鮮にしかないのだ。人間も動物であって、人間同士で生存競争をする以上、絶対にあり得ない。あるとしてもそれは安易な現実逃避、安易な妥協だ。

不況という一種の飢饉の中では、他者を出し抜いて欺いて他人の分を取り上げてでも食わなければ死ぬ。生きている方の理屈に立てば確かにごもっとも。カルネアデスの板の話をするまでもない。住宅ローン、自動車ローン、毎月のお小遣いを守るためには他者を蹴落とすのも致し方ない。

ところで、オジキの発言は図らずも、正社員は実に美味しい立場であるということもあぶり出している。非正規雇用をフリーと呼ぶ人は、冗談めかして言うのでもなければ、絶対に、いない。
たぶん、自分がフリーになって会社員ではなくなることとの関係でああいう反応の仕方になったのだろうと思うが、(え、オジキってそんなに繊細なの?)

ここで話を横道に逸らす。

まず、平成の大不況は「天災」であるということ。もちろん"ヨーダ"宮沢がヘマをやらかしただとかいろいろな人的原因はあるが、カタストロフィックという点で天災と申し上げる。

次に、日本においては正規に非ずんば人に非ずといった「暗黙の前提」があるということだ。日本は新卒採用した人間はそのまま企業のマネーで職業訓練を受ける。これに対し、非正規では職業訓練を受けることがまずない。第二新卒といわれる25歳程度までの若年者の雇用が増えてはいるが、これも新卒での雇用が行なわれたことが前提である。新卒で雇用されなかったことは平成不況において一種の入れ墨といえる。25を超えれば未経験者採用は限られる。30を過ぎればそれもなくなる。35を過ぎれば生活保護の方が高収入。

本来、正規雇用という既得権ゲット組はフリーでは生きていけない連中がやることだ。本来は。群れを作るのは群れを作る必要がある生き物ばかりだ。有能な方は集団に頼らずともやっていける。
ところが、今では1人でやっていける個体ばかり群れに位置し、本来そこに置かねばならぬ「弱者」が追いやられてしまった。

正規雇用は一種の生活保護なのだ。


さて、「解決」。解決にもいろいろある。僕の考えのようにテロリズムで社会を変えるのが最も良いだろう。実際、10人程度の命を以て派遣業法は変わろうとしている。交通事故で年に5000人死んでもそれで社会は変わらない。でも、やり方次第では変わる。これ以上に効率的な手段を僕は知らない。逸失利益は1人あたり3億円としても35億円程度。しかし、元手はほとんど要らない。金で注目を浴びようと思ったら才能はいるし、35億では足りないだろう。

もっとも、これは皮肉だ。テロなんてないならないに越したことはない。

話を元に戻す。
福祉や思いやりは「幻想」と断言した。弱者は助けてもらえない。年金や保険の類は、強者が弱者に転落したときのための「保険」だ。純粋に弱者のためのものではない。強者の自己救済である。

さて、では、好況下では生きる糧を与えられた弱者は、仮想飢饉下ではどうしたらよいか。助けは何もない。答えは既に出ている。群れを作るのが最適だ。自然界では弱い生き物は皆群れる。ならば、弱い人間は群れるべきだ。強い連中が群れているのだから、尚更弱者は群れねばならない。

2010-04-02

2度美味しい

気付くともみじが好きだった。たぶん、僕が天の邪鬼でなければこんなことはなかったはずだ。
この時期はみんな桜がすき。桜も良いけど、僕は染井吉野のりは八重桜だったり山桜だったり鬱金だったり、マジョリティでないものが好きだ。


もみじは春も良い。


青しだれという品種だけれども、できれば赤しだれも欲しい




どこかの道の駅で売られていたヤマモミジの盆栽。芽生えが鳥っぽい。



山椒も芽が出てきた。今年は実がなるだろうか。

おまけ。この時間帯のコントラストは本当に美しい。

2010-03-21

もういい加減にしろ

「美人すぎる市議」自民が参院比例に擁立検討
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100321-OYT1T00051.htm

知名度は確かに選挙戦には必要だけど、ろくすっぽ政策も論議しないで、知名度重視で候補者持ってきて、で、この国をどうするつもりだ?

有権者を小馬鹿にするのももうやめて欲しいし、それにもかかわらず票を入れちゃうお馬鹿さんももう大概にして欲しい。 舐められてるんですよ。有権者。包装紙は見るけど中身は気にしないって。

2010-03-19

sprouts, japanese maple.

春です。

春というとどことなくお祭り騒ぎを期待させるような雰囲気を感じるのは、日本人だけなのでしょうか。

2010-03-18

バイクが売れなくなったわけ

 市場規模はピーク時の6分の1!?
バイク業界にみる縮小市場で生き残る方法
http://diamond.jp/series/funai/10011/

気付いた点

1) 落ち込みが大きいのは原付である
2) 1987年に何があった? (ブラックマンデー? 原付のヘルメットの義務化は86年)
3) 93年から97年および99年から2007年の平坦部はなぜ生まれた?
4) 1999年以降原付2種の台数が減った理由は? (2ストエンジン生産終了?)
5) 2008年に原二が一瞬復活している
6) 1998年から1999年に何があった?(2ストエンジン生産終了?→1999年規制というのがあるらしい)

変態の立場から言わせていただけるのなら、スズキは相当頑張っていたと思います。チョイノリを発売しました。99年にはHayabusaを発売し、メガスポーツというジャンルを切り開きました。それまではGSX-R1100RかZZR1100くらいしかなかった高速巡航性と軽やかなスポーティさとを併せ持つジャンルです。

YAMAHAは95年に発売した、ビッグスクーターブームの先鞭であるmajesty以降、中排気量はスクーターに注力してその他はほぼなおざり。残念です。

 日本人は天変地異が当たり前に起こる土地に生まれ育ってきたせいか、変革を起こすパワーがほとんどありません。「仕方がない」「やむを得ない」と受け入れてしまう。これは現代では間違いです。

我々のポリシーは何か、フィロソフィーは何かという軸を定めるのがまず真っ先になされるべきことで、 妥協するのはそれからあとです。

「free」とはいかないですが、安価なエントリークラスを東南アジアから導入するのと同時に、免許制度や駐車場対策、法制度にも切り込んでいくのがよいでしょう。「バイク乗りにとって希望する将来」を切り開いていくのがメーカーとして正しい姿です。


---2010, apr 2nd added---
1993年、ヤマハpas発売

2008年12月 アシスト比率改訂
2009年2月 改訂後比率に適合したモデルが発売
http://www.yamaha-motor.co.jp/news/2010/0108/pas.html

2010-03-05

不作為の嘘

地球温暖化とCO2は無関係ではないが、CO2が温暖化の原因ではなく、温暖化するとCO2が増えるというお話し。
問題は、誰が何の意図でもってCO2を悪玉に仕立て上げ、人が増え、経済活動が活発になればなるほど排出も増えるCO2の排出抑制を言い始めたのか。
結局は、利権の話。







2010-03-04

水曜だと思ったら木曜だった。






人間は人間であると同時に、動物だ。動く物なので、動くべきだ。
一昨日、昨日と引きこもっていたらどうにも眠たくて困った。
古い機械が使われて、手入れをされて100年の長きにわたってはたらき続けるように、人間も手入れ以前に使われなくてはいけない。






今日は午後から雨だというので、ならばと午前中に散歩してきた。昨日近所のコンビニに欲しい雑誌があるか調べるついでに遠回りして帰ったら、梅の花が咲いているのを見つけたのだ。万葉集で得た「花」の座を古今和歌集以降は桜に座を奪われはしたが、それでも香りでは依然として勝っている。と思う。
紅白の目出度い組み合わせは桜には真似できまい。




梅を撮って、そのまま帰ろうかとも思ったのだが、折角なので更にほっつき歩くことにした。自転車もバイクもあると、通勤以外ではまず歩かない。有給休暇を消化しに入った僕は歩くことを目的にしないと歩くことがないわけだ。いや、出かけるところはあるだろう、俺。


ぶらぶらと歩いていると川沿いに出た。東京にも川鵜がいる。海鵜と違って川鵜はあまり好まれてはいないようだ。
後頭部がかっこいい。


護岸を作り直していた。既に砕かれたコンクリートの壁は、重機によってさらに握りつぶされるようにさらに砕かれていた。撮りたかったが勇気がなくてやめておいた。意外と握りつぶし感はジェントルでした。




こういう雑然とした画が撮れるのは日本のアジア感がしっかりしているせいだ。西洋が入っているとはいえ、日本の感性の基礎はアジア的カオティックの中にある。この菜の花はプランターから生えていた。写真は臭わない。音もしない。それは欠点に見えるかも知れないが、利点でもある。




ユキヤナギなのだが、寄りすぎた。これはちょっとそれに見えない。


思い出した。蝋梅の写真を撮りに行くのだった。ああ、土日は雨だったっけ。あと、名前の知らない釣り鐘型の小さな花を付ける木があるのだ。インターネットでいろいろと調べられるようにはなったものの、言語化できないものはどうにも無理だ。




ああ、そうそう。撮りに行ったのは梅だった。桃ではないと思うのだけど。枝には切る前のきりたんぽ(確かにただ「たんぽ」と書けばいいのだが、きりたんぽの名前の方がメジャーだからねえ。ショートケーキの絵を子どもに描かせたら、きっと扇形のあのカタチで描くように。ホールで描く子どもはなかなか居るまい。)


桜は花見・・・もとい、酒とセットにするにはよい。桜の時季なら凍死しづらかろう。さすがに梅の時期は死にかねない。


梅は予兆、桜は確信とでもいおうか。梅の時期はまだ寒い。春は確かに来ているが、まだどこにいるのかは見えていない。
桜は、春が曲がり角を曲がってこちらに向いた感じだ。そこで一旦止まることはあったとしても、直にここに来るに違いないことだけは間違いない。




鳩が大変に群れていた。カラスが生ゴミの比じゃないのでおそるおそる寄ってみた・・・
カレーパンはありました。
今60cmまで寄っています。おい、野良鳩共逃げやがれ。次は網持ってくんぞ。


スズメと遊んでみたいものですが、連中はもっと野良としての矜持がありますね。

2010-03-03

選挙のあり方と地方分権

「そういう選択を長崎の方がされるのなら、民主党政権は長崎に対しそれなりの姿勢を示すだろう」 http://www.youtube.com/watch?v=9Jc-PZ8wcQM

これはあまりにも酷い。支持するならそれに応えるとも、支持しないなら冷や飯食わせてやるとも取れる。「批判があったらば、人気取りのために利益誘導しましょう」なんて解釈の成立する余地は、絶対にない。

さて、選挙だ。ここは国政に限る。

国政選挙には概ね3通りの選出方法がある。小選挙区制、中選挙区制、大選挙区制だ。
小選挙区制は1選挙区から1人の候補を選出する。中選挙区は2人以上、概ね5人くらいまでか。大選挙区制はそれより多いが、ここでは全体を1選挙区とすることを念頭に置く。つまり、全国区だ。

小選挙区制にはあからさまなデメリットがある。地元への利益誘導だ。ついでに言うと、国会議員の小選挙区選出候補は都道府県議会議員ないし都道府県知事とかぶる。都道府県議会議員及び知事は都道府県への利益誘導をするのは当たり前で、かつ、重要だ。彼らは自分の責任範囲である都道府県全体の利益を考える必要がある。

国会議員が地元への利益誘導を考えることになる選挙区制は、もはや時代遅れだと言うべきだ。前述の通り、そんなことは都道府県の代表にさせればよい。国会議員は国民の代表では確かにあるが、国全体のことを考えて仕事をすべきだ。たとえば、我が故郷である茨城県から選出されていたとして、茨城の利益になる事業を引っ張ってくるのであれば他府県の利益になり、かつ国家の利益となることを述べて利益誘導をすべきだ。もっと言えば、国家のことを考えてもっと重要なところへ利益をもたらすべきだ。地元の代表という立場はそのような考えから議員を遠ざける。

一方、「我々に関することは我々が決めるべきだ」という民族自決の考えが国政に反映されるべきだという考え方もあり得る。だから、国会議員は地元の代表を選出すべきだ、と。

ちょっと待て。ならば、何のための都道府県議会だ?

そういろいろ考えていくと、国会議員は国税、外交、防衛、移民など、個々の地方議会に権限を移譲すべきでない事柄だけ扱えばよいということになる。確かにそうだ。地方分権が云々声高に言われるようになって久しいが、結局はこういうことだったのだ。国がやっていたことをもっと地方に譲ろうというのではなく、本来地方がやるべきだったことを国は早く地方に譲れということなのだ。


なるほど。各地方がやるべきだったことを、中央政府ないし国会議員がやっていたから問題だったのだ。

しかしながら、関所があった江戸時代ならともかく、現代では都道府県の境目は単に住所が違う程度の意味しかないのは越境して通勤通学する人間の多さを見れば分かる。ある程度結びつきの強い地域は一体のものとして扱い、弱いところを境目にして、もっと大きい単位で地方自治を区切ろうということが道州制の一つの見方と言える。通勤で神奈川から東京に入ったら税制も権利義務も何もかも違うというのでは、確かに生活が不便だ。だから、切りにくいところは繋げておくという程度でまとめる。まあ、東京はあまりに巨大だから、わざと切り離すということもあっていいとは思うが。

こうしてとりとめもなく考えると、地方分権と選挙制度改革はセットだということがわかる。

たとえば、以下のように分けてみよう。ある程度恣意的だけど適当だ。
北海道
青森、秋田、岩手、宮城、山形
福島、下越、中越、茨城、栃木、群馬
東京
埼玉、神奈川、千葉
静岡、山梨、長野、上越
愛知、岐阜、三重
富山、石川、福井
滋賀、京都
大阪
兵庫、和歌山、奈良
岡山、広島、鳥取、島根、山口
四国四県
九州七県
沖縄

1年間に1人の人間が使う金額には下限がある。だから、経済規模は人口と相関があると言っていい。だから、人口の大きいところは独立させる(というより、切り離す)

人口の少ないところは経済的に若干恵まれないことになるから、この不均衡は正した方が良さそうだ。都市部では人口の多さゆえに投資に対する回収の効率が高いから、たとえば日本で初めてのADSLは東京めたりっくだったが、当然大都市東京から始まった。都会ではプロパンガスではなく都市ガスだ。回収しやすいから民間資本がインフラに投資してくれる。地方では採算に乗せるための投資が大きな負担になる。

この分は正確に見積もって都会以外に投資した方が良さそうだ。民間にできないことは政府にさせるしかない。ここで国税の出番。国庫支出金なり、地方交付税なりは本来都市と非都市との格差を是正するためのものなのだろうけれど、現状はどうだろう。

ここで、都道府県より広域の道州制が生きてくる。つまり、3人の兄弟それぞれに1万円の小遣いをくれてやったらみんなwiiの本体を買っておしまいだが、3人まとめて2万円くれてやれば本体と併せてソフトも買えるということだ。少ない額で、意味のある投資ができる。
3人だったら1万円ずつでひょっとしたらもっとマシな使い方があるかも知れないが、10人だったら1人3千円しかやれない。ソフトすら買えない。これではカネが活きない。活かすための道州制を僕は考えている。

かといって、女きょうだいが男きょうだいと一緒くたというのは考え物だ。だから沖縄は別にしてみた。

日本人は他国の侵略に晒されたことがある。それを退けたことがある。他国による侵略を受け、主権を奪われたことがある。しかしながら、独立戦争をしたことがあるわけでもないし、革命をしたこともない。
国とは何か、主権とは何か、独立自尊とは何か、選挙とは何か、そういういろいろなアイデンティティに関わるよしなしごとについて、日本人はそろそろまじめに考えるじきにあるんじゃないだろうか。政権交代はその良い契機だと思う。

2010-03-02

捕鯨禁止の主張になぜ反論した方がよいか

彼の主張はこうだ。反対されているのだから反対に理由もあるだろうからやめればいい。捕鯨は必要とは言えない。

私は反論した。理由はあるだろうが、それが正当な論拠に拠ったものではなく、相手に損害を与え、己のみが利益を得る単なる言いがかりであること。必要がないからやめればいいというのは、凡そ文化的な主張ではないということ。

前者は措くとして、必要がないからやめればいいと言うのは危うい。

たとえば、だ。私が「お前にそんな彼女(カミさん)は合わないから別れろ。彼女も嫌がっている。縁を切れ。」といきなりに言えばどうだろう。そういう兆候があれば別だろうが、だいたいは色をなして反論されるに違いない。

そもそも必要という概念、および、必要でないという概念自体、恣意的に用いられすぎだ。両方とも特定の条件下のみで用いることができるというべきだ。

人間には酸素が必要だ。ただし、死人にはもはや必要ない。肺炎の患者には酸素ボンベの酸素が必要だろう。植物は自ら作れるので、必要は必要だが植物は自ら作れるのでわざわざ与える必要はない。

行倒れ寸前の家出人は盗みをしてでも食料を手に入れる必要があるかも知れないが、行倒れ寸前の家出人であってもお金を持っていれば食料を盗む必要性に欠ける。

捕鯨は必要か。これも条件を設定して回答する必要がある。まず一つに、食料として。
食料としてみるだけならば必要はない。第一、私はここ数ヶ月クジラを食べていないが、健康を害してはいないし、当然飢えてもいない。クジラを食べなくとも死にはしない。

次に、工作材料としてのクジラを考える。詳しくはないのだが人形浄瑠璃の人形などではクジラのヒゲが重要らしい。代用の素材は簡単には手に入らないだろう。いくら科学が発達したとはいえ、今でもバイクレースでレーサーが着用するスーツは牛革製だ。吸湿性に優れた素材なら綿だろうし、あるいは羊毛だろう。生物素材が人工素材にかなわないことはいくらでもある。でも、浄瑠璃の人形を作らなければ済む話だ。必要だとは言えない。

次に、文化や技術の媒体としてのクジラだ。先述の人形浄瑠璃の人形。つくりかたが忘れ去られれば再度製法を発見することは至難を極める。調理法も失われるだろう。将来クジラを捕って食わねばならないような時代になったとき、その知恵があるとないとでは当然暮らしは異なる。でも、せいぜいマズいくらいであって、食えないわけじゃない。必要だとは言えない。

必要ないのだ。クジラなんて必要ない。食う必要もないし、素材として取る必要もない。代わりはいくらでもあるだろう。

では、私があなたにこう言ったらどうだろう。捕鯨が必要ないという主張が通るなら、私が次の通りに言ったら受け入れてもらわねば困るのだ。だから、必要でないというのを論拠に今あることをやめるということには、非常に慎重であるべきなのだ。

「死ね。お前なんて必ずしも人類に必要な人間だとは言えない。代わりはいくらでもいる。死ね。」

2010-02-20

一気呵成にやれ

TOYOTA章男社長が公聴会に行くことになった。

是非とも重役全員を連れて行っていただきたい。

いままでずっと戦力の逐次投入という愚を犯してきたわけで、ここで攻勢に転じるにはそれをやめるしかない。

取りうる方策としては2つしかないと考える。単身乗り込むか、全兵力を投入するか。

本人が優秀なら単身で乗り込む手がある。ただし口ごもったりすればバカ扱いだろう。非常にリスクが高い。全ての質問に対して完璧な対応ができれば、彼は勇気も知恵もあると評価されるはずだ。しかしながら今までの対応を見る限りこれには期待できないから数人の重役がついて行くにとどまるだろう。ありふれた対応だ。いままで戦力の逐次投入をしたせいで火が消えなくなっているのに、この期に及んでまたそれをやるというのでは呆れられる。

ならばその逆だ。重役全員を引き連れていくのがよい。誰もこれは予想していないはずだ。マスコミも「TOYOTAはいい意味でクレイジーだ。重役全員連れて来やがった!」と書くだろう。市民もそれを読むだろう。そして、不安になる市民がどれだけいるだろう。TOYOTAはこの問題に全身全霊を注ぎ込んで解決するつもりだと捉えてもらえるものと期待する。消費者も心強く思うだろう。

そして単騎決戦と違いリスクも小さい。

一連のリコール騒動をヤバイと感じているのであれば、是非全員で行くべきだ。

マネジメントを考え(てい)る

会社の人と話をして、国際事務機器がおかしいという話になった。
以前はメーカーだったのがソフトウェア会社になりつつあり、その先にはマネジメント会社への変貌を考えているような気のするブルーな会社。


ソフトウェアのライセンス。ライセンス自体は実体のある製品ではないから、お金を取ろうと思ったら何を単位としてそれに単価を設定するかということになります。Windowsならパソコン1台に1個ですが、ものによってはCPU1個に1ライセンスというものもありますし、そのソフトウェアによって恩恵を受ける人数を基準とすることもありますし、OracleDBみたいにCPUのコアの数量を基準とする場合もあります。


IBMのソフトウェアはあらかたPVU(プロセッサ バリュー ユニット)という単位で売ります。CPUコア課金の一形態なのですが、CPUの種類によって基準となる評価数を変えて、それにコアの数を乗じて料金が算出されます。たとえばXeon5450を2個乗せているサーバーであれば、1コア50PVU、4コアのCPUが2個乗ってるから400PVUなので、1PVUの400倍の価格、ということになります。SPARCやPOWER5、Opteronなど、CPUによってそれぞれ1コアの評価値(PVU)は違います。


コア課金の場合、CPUのコアは誰がどう見ても2個なり4個なりの客観的数量に落ちつきますが、PVUの場合、基準となるPVUを決めるのはIBM。PVUの評価をいじれば好きなように1CPUあたりの基準金額を変えられるというのがキモ。


路線価を変えれば狭い土地からもたんまり固定資産税を取れるようなもの。


で、IBMのライセンスが高い。IBMに限ったことじゃないけど。


憤慨しておられました。おまえらどうやってこれ売ってんだ? と言いたいと。


ばいざうぇー


どうやったら顧客に気付かれずにもっと多く搾り取れるかというのは、経営者ならちょっとは脳裏をかすめることだと思う。もう少し欲しいなあと思うことはきっとある。でも、客はもっと安かったらなあと思っているのは間違いない。売る方になるかどうかというのは人によってあったりなかったりだけど、買う方になったことのない人はまずおるまい。


ビジネスの要諦はどうやって気前よく反復継続してより多くのお金をお支払いいただくかにある。気前よく払いたくなければ逃げられる。逃げられたくなければ囲い込むことだが、それが満足なレベルでできるのはマイクロソフトと公権力だけだろう。


一般的には巧いこと言いくるめて払わせちゃうわけだけど、「騙された!」となるとこれは非常にマズい。「反復継続」が成立しなくなる。だから嘘に嘘をミルフィーユ状態になる。こうなると結果は2つしかない。現実が嘘に近づいてくることで辻褄があってセーフになるか、破綻か。


前者は希望的観測というやつで、購入するものがコモディティである限り前者はまず成り立たない。コモディティかつプレミアムということが可能なら成り立ちうる。たとえば牛肉。オージービーフも大田原牛も牛肉という点では一緒だし、栄養価を見れば脂肪の量が違うという程度だろう。ビタミンやミネラルの量がそんなに変わるとは思えないし、そもそも一般消費者はそんな観点で牛肉を選ばない。


プレミアムというのは、動機付けだ。成分が全く同じチョコレートならば、同じ価格であるはずだ。でも、たとえば初めから割れているので食べやすいとか、ひとかたまりがピンポン球くらいあって食べごたえが半端でないとか、原価以外の付加価値の部分だ。チョコレートや牛肉の例のように付加価値に訴求力があればいい。


でも、ビジネス用のソフトウェアは完璧なまでにコモディティだ。アバターがついてて可愛らしいとか、DVDメディアにジャニタレの画像があるとか、そういうのは全く期待されていない。完璧なまでに道具として優れていて、かつ安いことが求められている。では、道具としてはほぼ同等の評価がされていたらどうか。価格だ。


もちろんソフトウェアはそれだけではない。サービスとサポートだ。でも、両者を必要としていない顧客には売れないだろう。ガソリン屋さんはオリーブオイルやごま油は買うだろう。でも灯油や軽油、ガソリンは間に合っている。仕入れ以外の理由で買うわけがない。


多くのお客さんは現状にかなり満足している。それなのに新しくものをより高く買ってもらおうというのであれば、もっと便利になることをアピールするしかない。でも、そんな機能はいらないと言われたら、さてどうするかということになる。フォード車はレギュラーガソリンでよいのに、どうやって儲けよう。貴方ならどうするだろうか。僕ならガソリン屋の傍らフォード車を売る。


#金融危機でGMもクライスラーも潰れたのに、フォードだけ潰れなかった。多分経営哲学が素晴らしいせいなんだろう。顧客が気にしているのは燃料消費率ではなく、ガソリン代だということを適切に見抜いていた。まだ炭素税かかってないからね。そうすると、ディーゼルハイブリッドなんてものが今後出てくるのかも知れない。


マネジメントは経営と和訳されるけど、経営というと数字いじりやお金のことばかり前面に出てきている気がしてあまり好まないので、あえてマネジメントという単語を選ぶ。「人をどう動かしてどうやって巧くやるか」がマネジメントと捉えている。


恣意的に価格をつり上げるようなマネをして継続反復したビジネスを途切れさせ、あるいは間口を狭くするというのは、マネジメントとして成功だろうか。

TOYOTA社内で内紛?

なぜ兵力の逐次投入はダメなのかというのを読んで、ランチェスターの法則などの記述も読んで、ふと思い出した。



トヨタブレーキ問題の本質を推測してみるのことだ。今日現在TOYOTA章男がUSの公聴会に出向くことになったようだが、日本に引きこもるといって、それから「出て来いやカワード野郎」と言われたので出ることにしたというのが経過である。


どう見ても兵力の逐次投入という愚なのだ。いやまあこれが初めてのトラブルなら別にここまで言及することもない。フロアマット、アクセルペダルという経営資源の逐次投入→失敗のコンボをつい最近経験しているのに、どうしてまたやるのかということだ。


TOYOTA幹部はバカなのか? いや、そうではない。ならば、なぜこのようなバカな振る舞いをしなくてはならないのか。
けっこうな回数自問して考えた結果、TOYOTA章男は社内でそうとう嫌われているのではないかということに行き着いた。そしたら文春の中吊りに彼の会社員人生のことが書いてあったので、なるほどと落ちついた。


落ちついたのはいいんだけど、この一連のリコール騒動でいくら使ったんだろう。
これだけの損害を一方的に章男社長におっ着せて、それで責任を取らなくて済み、素知らぬ顔でいいポストに立てる立場の人間がいるのだろうか。

トヨタブレーキ問題の本質を推測してみる

<< as「トヨタブレーキ問題の本質を推測してみる」初出2010年02月11日17:09 >>



UCCツイッター騒動も併せて考えると、アメがトヨタを叩きたかったというのは措くとしても、論点を捉え損ねたがゆえのコミュニケーション不全に起因する問題と結論づけました。 

「問題ない」=ユーザーの使い方に問題がある 
「強く踏めば止まる」=ユーザーの使い方に問題がある 
「不良ではない」=ユーザーの使い方に問題がある 

まずこれ。「責任転嫁ですか?」とユーザー(含む外野)がとらえたということ。 

なにしろ、フロアマットとアクセルペダルと立て続きだったこともあり「また言い訳ですか」と感じられたのではないかと。 

確かにブレーキには問題は全くなく、仮に改修したとしてその方が制動距離が伸びるかも知れません。ユーザーは「制動距離が長くなった」という訴えをしたのではなく、止まらない「感じ」がしたと不安を訴えたに過ぎないと見た方がブレーキ騒ぎについては正しいと考えます。ブレーキには問題がなかった。あれだけ問題ないと連呼しておいて本当に問題があったならトヨタは潰れるべきです。 

では、問題ないブレーキについての不安を払拭するにはどうしたらいいか? 

懇切丁寧に説明して、必要に応じて資料を用意し、あるいは体験してもらって納得してもらうしかないでしょう。 
曰く改修の必要はなかったのですから、改修の必要がなく、改修すれば悪化する(可能性がある)ことを丁寧に説明して理解してもらうのが本筋でした。 

「トヨタは失敗しない」という傲りがあったのだかどうだかは知りませんし、それを傲りと呼ぶべきかとうかは知りませんが、「我々に間違いはない」という自信がこの騒動をややこしくしたのは間違いないでしょう。何しろどちらとも主張は正しいのですから(*1)、それ以外のどこかに問題点があることを急いで見抜くべきでした。 

むしろ、なぜトヨタ社員のPR部隊がそれを見抜けなかったのか。正直言って間抜け揃いです。優秀な社員が揃ってるんでしょ? なぜこの程度のことを見抜けなかったのかあまりよく理解できません。ここ数年多発していたリコールを更に増やすわけにはいかないという焦りでもあったのでしょうか。ともあれ、理解できるとすれば「自分たちに間違いはないという自信の故に客を理解しようとしなかった」というのがまず1点です。これが非常に大きい。 


たぶんトヨタはまた一騒動やらかすでしょう。WSJには寄稿をしたらしいですが、邦紙(誌)にそのようなことをしたとは聞いていません。そういうCMを打ったとも聞いていません。日本のユーザーは常に後回しにされました。USでリコールなのに日本ではリコールにせずサービスキャンペーンとして扱おうとし、(サービスキャンペーンにすること自体は何の問題もありません。本来改修の必要すらないと主張するのですから、サービスキャンペーンで充分なはずです。) 相手の顔色を窺ってからリコール扱いにしました。 

問題はないと主張したのは「これが現状ではベストです」というのに等しいわけですから、もう少しは突っ張るべきでした。いろいろな資料を出して「現状がベストなんです」と言い張るべきでした。なぜなら、メーカーは使命としてベストを提供すべきですから、迎合してベストでないものを出してはいけないんです。ベストなものが絶対にお客様の安全・利益に繋がるのですと主張して良かったと思います。 

リコール扱いを受け入れたことでトヨタは欠陥であるという主張を「左様でございます」と認めたことになります。「そんなに言うなら仕方がない。多少リスクがあってもベストからちょっと落とすよ」というのはあまりにも筋が通りません。クルマは人が死にますからね。 
仮に同じ立場に他メーカーが置かれたとして、日本以外のメーカーでは絶対に改修はしないでしょう。だって、一番安全なものを提供したのですから、それをわざわざ危険にして提供するということはどう考えても誤りです。自らの仕事に対するスタンス、ポリシーの立脚基盤があまりにも脆弱です。 

ポリフォニーデジタル(*2)ならOKでしょうけどね。 


=== 
*1)こういういうことで多分良いのでしょう。僕は"カツマー"ではないですが、「起きていることは全て正しい」というのは多分こういうことなのだと考えます。つまり、「それはおかしい」と早計に判断しないということです。「錯覚・錯視」にもちゃんとした理由があるということです。次に引く言葉と同源です。相手がなぜそう主張するのかきちんとした理由が分かるまでは、否定するようなことをいってはいけないのです。 

「壁がつくられた訳を知るまで、壊してしまうべきではない。」(G.K.チェスタトン(俺調べ)) 


相手の主張が誤りだと言いたいのであれば、誤りだとは決して言わず、自分が正しいとも言わず、相手が「間違っていた」と気付くまでひたすら「気付き」に導こうとすることです。大事なのは「分かる」ことなのですから。 

=== 
*2 Gran Tourismoの会社ですね。 

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追記 
日経teckonに次の記事がありました。引用します。 
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 佐々木氏は新型プリウスなどのドライバーに向けて,次のように注意を促した。「雪道や凍結路における低速走行で,かつ緩いブレーキでの現象とはいえ,大変申し訳ないのですが,ブレーキペダルをしっかり踏んでいただきたい。そうすれば,確実にブレーキが利くということをご理解いただくとともに,ABSの作動は雪道や滑りやすい路面でブレーキペダルを強めに踏んでも,決して車輪のロックなどによってスピンなどはしないようにする装置ですから,安心して強めのブレーキを掛けていただくことを,切にお願い申し上げる」。 
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説明としては完璧だと思う。ほぼ完璧とかじゃなくて完璧。惜しむらくはなぜこれが最初の最初に社長の口から発せられなかったのか。 
ブレーキが緩いと感じたら強く踏めという点では今までと主張は一貫している。ただし、言い方が全く違う。この言い方なら大方の人が「あ、ちょっと踏み増せば「思ったとおりに」止まるのね」と感じられたのではないかと思う。 

齟齬は「思ったとおりに止まらない」ことに端を発していたのだから、思った通りになる方法、あるいは、NISSANのブレーキとTOYOTAのブレーキの効き味が違うように、「ハイブリッドはちょっと違うので、違う踏み方をして下さい」という説明をするただそれだけでよかったのに、と思う。 
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20100210/180123/?ST=AT 
(要ID) 

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豊田社長 米運輸長官と面会へ 
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1106992&media_id=2





2010年02月11日 22:51
> せいさん

認識の違いというのではなく、理解する努力をし、理解させる努力をしたか、ということではないでしょうか。

認識の違いの一言で片づけるのは「俺の言うことを聞け」ということです。不信感を既に持った相手がこれでは納得するはずがありません。

人間のやることなすこと総てにはそれなりの理由があるのですから、まずそれを理解するべきでした。相手を説得するにはまず相手と認識を一致させ共有したと示し、味方、理解者だと信用させることです。

認識の違いであって~というのは議論にも対話にもなりません。説得としては下の下です。

章男社長はUSの公聴会を欠席するそうですが、対話のチャンスから逃げるわけですから、卑怯者と捉えられ、相当こじれるでしょう。なぜここまで危機管理がお粗末なのか全く理解できません。PRはいったい何を考えているのでしょうか。
すべての産業は本質的にサービス業だということが理解できていないようです。






2010年02月12日 00:07
週刊東洋経済に北川達夫氏の「わかりあえない時代の「対話力」入門」というページがあります。今週号はまさにハマるのでご一読を強くお勧め。 


「ンなバカなことがあるかいな!」という前に、「待てよ、なんでそんな「バカなこと」を言うのだろうか。理由があるに違いない。そしてそれは彼の論法に拠ればまっとうなことに違いない」と前提してかからないと、バカ扱いされるというお話しがあります。

2010-02-19

I'm back! Solomon!

It's perhaps, just an imagination, I wrote that subject.

Anyway I'm back.

つうわけで、長期の沈黙を経てブログに戻ってきました。理由は、mixiという閉じた世界ではちょっと狭いと感じた点。SNSはなんだかんだいって閉じた世界のわけで、といってもmixiは紹介制をやめますが、検索ロボットには引っかからないわけです。自主的google八分(この言い方もまだ死んではいないのだろうか・・・)になることもないわけで、価値は小さくともそれなりの時間を割いて書いたことが誰かの目に留まり、二束三文でも価値があると認められ、世間様の役に少しでも立つ、言い換えれば世界の価値を少しでも増すことができれば、と思った次第です。

So, I'm back to the world has blog.. I've felt SNS(Social interNet Society) world is a little bit narrow,  and I decided. There's close, not open world in SNS -the Mixi daesn't demand any invitation from exist user to new users  - searching robot(e.g..google) can no articles in SNS world. I'd like to be a  worthy person in the world. I'd like to be found by someone what I written is a little bit worthy, benefit for the world. I want to be..