2010-05-30

ジェットエンジン

一度スロットルを緩めたときの再加速のレスポンスが良くないのです。ジェットエンジン。
継続は力なりといいますが、一度中断するとなし崩し的にどうでも良くなっちゃうのが玉に瑕。玉ですらないけど。



原価の話
http://matome.naver.jp/odai/2127374075574714001
原価には開発費とか含まれてないので、原価だけの話をするのは頭悪いです。ラーメン屋のラーメンの原価には店の賃料だの電気代だの入ってないのと一緒。
人間の原価っていくらなんかなあ。人によってはカネかかってたりかかってなかったりするよねw

対談・肉食と草食の日本史 「玉砕」の謎 一夫一婦制と国民皆兵の明治
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/12/news036.html
これは読んだまま放置していた。玉砕できるというのは、自分の命よりも大事なものがあるという価値体系の中にのみ存在するわけで。わかりやすいところで言うとイスラーム。ムジャヒディンは死を恐れない。
日本人は玉砕できたけど、今の日本人は玉砕できるのだろうか。J官はどうか。韓国朝鮮人、中国人はどうか。

ponta
http://www.ponta.jp/c/entry/index.htm
古くは商店街共通ポイント、それからよく見るところではTポイントの、共通ポイント。モバイル版がないし、登録が面倒くさい。docomoが英断を以て公開したおサイフケータイ。この利便性は複数のカードが携帯1個で管理でき、かつ、電子マネーでは完全サイフフリーを実現できる一気通貫性。

1つのgmailを増殖する方法
http://r.nanapi.jp/2424/
増えるねえ。

2010-05-13

福祉、環境整備、雇用、男女共同参画では解決しない


書こうと思ってたら日経に半分くらい書かれた。結局は意識の問題。

1時間かけて書いたらバックアップが競合して消滅したので、脱力したのでここまで。

2010-05-11

沖縄から米軍が退かないわけ

今日は何となくizaで書きました。

 沖縄から米軍が退かないわけ 


非効率行政の打開

政府は都市一極集中、ことに東京一極集中を早急に是正すべき。
更に言えば、首都機能移転は急務。

出生率の改善の足枷のひとつは、都市一極集中。

画像は本日発売の東洋経済から。
んで、待機児童は地方部より都市部・ベッドタウンに多い
保育所入所待機児童数(平成21年10月)について

付け加えて、合計特殊出生率は、地方部で明確に低いとは限らないがその傾向があり、都市部において明確に低い。
平成20年 人口動態統計(確定数)の概況

更に、1人あたり県民所得と出生率とは関係がない。つまり、出生率と収入とは関係がない。
平成19年度県民経済計算の、1人当たり県民所得(50KB)を参照。

2010-05-07

Radio and I

僕とラジオの付き合いは、小学生の頃からでした。いつからつきあい始めたのか知りませんが、小学生のときにはもう聞いていました。いや、それよりちょっと前からかな。

幼稚園の頃でしょうか。家に帰ると、カルビーのポテトチップスの時報で3時が知らせられ、子供電話相談室の時間でした。日課。まさに日課。疑問を差し挟む余地なき日々でした。

小学校にはいるとこれがちょっと変わります。幼稚園のときは近所の「純ちゃん」といっしょにタクシーで幼稚園に行ったのですが、小学生になったらお兄ちゃんですから、歩いて通うのです。始業は8時半。集団登校はたしか7時20分集合だったかな。NHK第一のニュースは7時15分を知らせてくれたのです。だから、それを聞いて、母に家から追い出されていました。6年間。「7時15分です。エヌ、エイチ、ケイ」。

正直言うと、それからラジオは空気だったのです。学校が終わってからは遊びに行ったりテレビを見たりで、ラジオとの関わりは出かける寸前の朝食の時間だけ。時報にはなっていましたが、聴いているのではなく、聞こえているだけでした。1人で朝の支度をする人には、ラジオはオススメです。なにせ、見るものがないから見なくていい。

ラジオとの再会は、風邪がもたらしました。多分中学校に入ってから。分かると思いますが、昼間寝てしまうと夜眠れないのです。暗い部屋で目を閉じていても、眠れないのです。これは退屈で仕方がありません。そして、再びラジオと邂逅と相成りました。確かコサキンだったかなと思います。次にレディクラ

しかし悲しいかな、田舎の学校でラジオリスナーは僕一人のようだったのです。1人の楽しみとなってしまいました。「変態木曜日」にオギオギしつつ、それからぼくは高校生になりました。ここでようやくリスナー登場です。でもレディクラは岸谷五朗が売れっ子になり終了しましたが。伊集院光のOh!デカナイトをオススメしてくれたのは浅野くんです。でも、ごめんな。うち、TBSとNHK第一第二とFEN(現AFN)鹿入らなかったんだよ。文化も、ニッポンも、日本も入らなかった。そうして、僕はコアと言うほどでもないか、TBS好きへと育っていくことになりました。実家には今でも大沢悠里さんのサイン色紙があります。

転機が訪れたのは大学入学でした。大学にはいると一人暮らし。テレビも買えるわけで、独り占めできるわけです。

ラジオはその地位を追われました。そうです。お早うからおやすみまで、暮らしを見つめるのはライオンとテレビになりました。ちょうどこの頃でしょうか。インターネットなる黒船がやってきました。1999年頃だったかな。僕がISDNを入れたのは。東京では東京めたりっくとかいうASDLなんてものがあると聞いて、ISDNが64とか128とか言ってる頃に1.5M(だったと思う)も出すといって、これはとんでもないと感じたのを今でも思い出します。

わたしももれなくインターネットに迷い込み、このときできた人脈は今でも続いています。ってかすごいな。takex、よりくん、蜃気楼くん、SIGMAさん、かかおさん、響くん、見てるか?

ミッドナイトパーティでひとしきり大失敗したTBSラ。パックインミュージック21はそこそこ良かったな。upsも悪くなかったな。いわれれば思い出す番組が結構あったりします。

テレビがあった割にはラジオも聴いていたようです。しかし、これが一変する事態が。引越しです。
鉄筋コンクリートのマンションでは、AMラジオは劇的に入らないのです。そして再度の離脱。

ラジオの世界に帰ってくるのはそれから4年後。高円寺の狭いアパートに引っ越してからです。
狭いのでテレビはやめました。そして白羽の矢がラジオに。

まあ、ラジオはこういう感じです。久しぶりに付けても聞いたことのある番組が流れてくる。視聴率調査からは距離があり、聴取率調査でもそれほど醜くなることもない。テレビにはない魅力と言っていいと思います。テレビ放送がなくなっても別にどうということはないですが、ラジオ放送、ことにAMラジオがなくなったら、国家に打撃を加える用意はしておきたいと思います。

2010-05-05

権利と義務、自由と責任、世間と私、それと、結婚。労働編

養老孟司「無思想の発見」だったと思うが、お葬式の話が出てくる。江戸時代に、故人の遺言に葬式の次第が事細かに記載されていて、それが普通とは相当違うオリジナルの葬式だったため、これをどうしたらいいものかと偉い人に相談したときの話。
その偉い人は「一度普通の葬式をあげて、それからオリジナル葬式をしなさい」ということを言ったと書いてあった。
というのはうろ覚えなので、ぜひ原著をご参照頂きたい。私の手元には今見あたらない。ごめんなさい。

で、なぜこれを引いたかというと、現代日本人の権利と義務、自由と責任に関する意識が、江戸時代のそれよりも劣化しているのではないかという考えに至ったからだ。
上記の例では、オリジナルな葬式をあげることは否定されていない。やって良い。これは権利であり自由に属するもの。その一方で、「普通の葬式をあげよ」と言っていて、私もむしろこちらに着目している。

実は、この例は公と私との違いについての例として挙げられていたもの(だと記憶している)なのだが、自由や権利についても適用あるいは準用できるし、同著でも触れられている「世間基準」にも関係するからだ。寝ようと思ったら結婚にも繋がることが分かったので仕方なく寝ないで書くことにした。

ちなみに、「権利」は「right」からの造語であることが知られるが、明治維新前後には様々な造語がされている

まずは日本人の労働のとらえ方。もんどさん日本の労働は労道となっていると言われ、僕はその現状は追認しつつ、労働に関する考え方が誤りなのではなく、権利義務意識そのものが誤っているからだと説いた。労働に関する考え方もそれに内包されるには違いないが、労働に関するそれだけが誤っているわけではない。もっと根源的な部分から間違っている。イワシは1匹で飼うものではないのだ。

江戸時代の労働には疎いので、助けてgoogle先生のお時間です。
江戸時代の労働に関する各種サイト

調べてみると、雇われの身は悲しいかな、現代とそうそう変わらないようだ。「商家に住み込んでいる番頭や手代たちは、今でいえば”サラリーマン”にあたるだけに、職人ほどのんびりとはしていられなかった。」「匠大工の人の労働時間は午前6時~午後4時まで。日雇い大工は午前6時~午後8時まで。昼食は2時間かけていたので、匠大工が8時間、日雇い大工は12時間働いていた」。一方、雇われでない身では結構いい加減だったようだ

江戸時代に日曜はないけど一応休みの日の概念はあったのかこういう記述も見つけた。
江戸時代には電気がないんだ。どんなに忙しくたって暗くなれば寝るしかない。残業なんてないしね。交通機関もないから何時間もかけて通勤することもない。 時計がないから分刻みの労働管理もできない。電話で催促されることもない。仕事の密度は、現在とはまるで違うはるかにのんびりしたものだっただろう。と、 詩人の想像力で思うけど。現在のような密度で仕事をさせられたら週休2日でもシンドイが、江戸時代は年2回の休みでもやれるくらいの密度だったんじゃない の。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/museifu/dialogue04.html
電気はなくとも必要なら灯りはあった。でも今ほど安いわけでもなかったろうから、概ねこの主張は筋がいいと思う。とくに、携帯電話はおろか電話すら当時はなかったもんね。台風でも出社するのもよく考えればおかしいし、動いている交通機関もおかしい。ひょっとしたら、世間そのものが機能しなくなっているのかも知れない。

さて、現状と全て総合して考えると、現代日本のサラリーマンはみな丁稚扱いだということにすると、一見矛盾がなくなる。経営から見たら「丁稚があれこれ騒ぐな」だし、労働者からすれば「いつまで丁稚扱いだ」となる。そりゃ大学出てから20年も丁稚奉公しなきゃいけないっていうならおかしいわ。とはいえ、「では明日から独立してやってくれ」と言われてはいそうですかというわけにもいかない。独立してやっていけるだけの能力があるという人はそうそう多くないだろうし、そもそも不満があれば出て行くか。と、これは多分経営者側の見方だ。

一方、労働者の観点に移ると、雇用契約は労働力の売買だ。ビジネスライクだ。

ところで、契約不履行があった場合、大陸法では原則を契約の履行で解決しようと考える。これに対して英米法では損害賠償で解決すればいいと考える。日本は大陸法の系譜なので、契約は契約だから履行しろとなる。これに対する英米法の考え方は実におもしろい。

たとえば、椅子100脚を月末までに1万ドルで納入する契約を結んだとする。一方、テーブル50卓が2万ドルという需要があったとする。このとき、100脚の椅子と50卓のテーブルでは50卓のテーブルの方が1万ドル儲けが多いことになる。これを違う言い方をすると、100脚の椅子より50卓のテーブルの方が1万ドル分社会の利益であると考える。つまり、この例では椅子よりテーブルを売った方が公共の利益に適うのだ。だから、椅子の契約を破棄して損害賠償を支払い、テーブルを売った方が正しいということになるという考えだ。

上記のような、どちらも可能だが両方が可能ではないという場合の契約破棄は上記の通りだが、椅子は作れないがテーブルは作れるという場合、椅子の部分は履行の強制ができないため、結局は損害賠償で決着するしかない。すると、英米法の考えの方が合理的だと考えることができる。

さて、労働に戻る。つまり、労働者に不満があれば、もっと良い条件、給与面かそれ以外の待遇面で好条件のところに移ればよいのでは? という疑問が出てくるはずだ。もっともだ。ビジネスなのだから、サクッと移ってしまえばいい。でも労働者は不満を述べるのが主で、移籍はあまりしない。なぜだろう。

それは、労働が労働者にとって、未だに労働がビジネスではなく奉公であると捉えられているということではなかろうか。ビジネスだったらもっとシビアでいいはずだからだ。もちろん、労使の力の格差というのもあるけれども、転職市場がないというわけではない。

一方、ブルーカラーではそう簡単に転職とは言えなかろう。知識以上に技術は一朝一夕では身に付かない。作業に縛られた封建制とも言えるのかも知れない。これは転職ではなく労働争議によるほかなかろう。

では、このm経営側からは「甘え」と言われても差し支えない不条理感はどこに起因するのか。たぶん、管理できない管理職の無能と、ノブレスオブリジュの欠如にあるのではないか。管理職は部下を適切に管理するのが職責だが、管理とは何かといわれて正鵠を射ることのできる管理職は少ないだろう。じゃあ、管理者の職責って? という問題はドラッカーのマネジメントでも読めば分かるはずなので割愛。リンク先はアマゾンだけどアフィではないです。

現状、管理職がプロフェッショナルではないこと、管理側と被管理側との考えに乖離があること(民主が政権取ったら次々自民と似たようなことをやってるのも考察する上でおもしろい。日本では平から昇格して管理職になるのが政権交代と似る。) あたりに原因を求められるのだろうか。

つか、「労道」なんていってるやつはアマチャンという結論に至りかけたのは相当意外だった。これはお仕置きされかねない。まあ、死なずに生きていくこと自体、一種の自然淘汰の試練場だから、辛くて当たり前なのかも知れない。人生自体人生道とでもいうべきものですよ。モルセッリが言ったとおり、自殺は精神という弱点を抱えた者が自然淘汰される一形態。絶えられないやつは死んじゃう。ラテン野郎みたいに楽しみ方を知ってると楽しめる。日本人は物事を楽しみたくない民族というだけのことかも知れない。

2010-05-03

演繹と帰納

インターネットはサービスではなくて、地球だと考えている。
インターネットの匿名性がどうのこうの言われることがあるが、実社会だって同じだ。同じホテルの隣室の客だって、名前は知らん。違法かどうかは別にして、宿帳に本名を書いているかどうかも分からない。しかし、あしあとを辿ることはできるかも知れない。
ネットだって実社会と変わりはない。

以下、敬称略

勝間 vs ひろゆき 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=gqduJqJuQUs

勝間 vs ひろゆき 2/3
http://www.youtube.com/watch?v=kyxMpFuInSk

勝間 vs ひろゆき 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=uwlKyWP1n2g

勝間(以下K)「どうやってインターネットの中である程度のルールをもって確保するような環境を作りたいかということ」
ひろゆき(以下ひ)「それは教育じゃないですか? 人がどう考えるかであって、別にサービスの提供者がやることではない」
K「まさしくそこですよそこ」
ひ「じゃ、個々の人間がどうするかってことをサービスの提供者の責任にしているのかってことが僕は分からない」
K「そこですよね。そこが私とひろゆきさんの大きな、多分、議論の分かれ目で、私はある程度サービスの提供の場を作ったときには、そこのルールを規定しないと、荒れてしまうと思ってるんですよ」
ひ「そ、荒れるってどういう意味ですか?」
K「実際にじゃ、2ちゃんねるで非常に有益なスレッドもあっておもしろい議論もあれば、まさしくその、なんていうんでしょ、鬱憤晴らしのための、批判であるとか揚げ足取りみたいな、スレッドもたくさんありますよね? それは正しいですか認識として?」
ひ「社会ってそんなもんじゃないですか。居酒屋とか行ったらみんなそんな話してるじゃないですか」

1/3の冒頭だけ抜き出したけど、自分で観察して得た事実から出発しているか、望む姿から出発しているかの違いはここで分かる。

web上の人格とリアルの人格とを紐づけるコストの話がこのあと出てくるが、これも破綻している。だって、コンビニでもの買うときに名乗らないでしょw 高度に発達・細分化の進んだ世界は、反復継続して接触する前提がない限り、匿名だ。
「やまだたろう」と「ななし」の話も、仮に僕がたちばなせいいちではなく「かつまかずよ」とな乗ったらどうかという話だ。もうこの時点で匿名なのだ。名前というのは所詮「識別記号」であって、特に区別する必要がなければなくてよい。名乗ろうとも名乗らずとも結局IPを調べに行くのならば名前なんてあってもなくても良い。

だれも炊飯器の中の米の全てに別々の符号を割り振ったりしない。名前を要求しない。それがたとえば特定の粒だけ見る確度によって色が変わるとか、1粒60kgあるとか、明らかに識別すべき事情があって初めて識別すべきものになる。逆に言うと、あっちが名乗っても識別の必要がなければどうでもいい。

識別すべき必要の有無があるかないか、名乗れと言う人間は的を持てと言うようなものだ。ネットの顕名化論者は一対多ではなく1to1でやろうと言っているだけのこと。でもこの1to1がくせ者で、あっちは既に信者が付いているので実質多数で1人をタコ殴りにすることになる。匿名が卑怯かどうかというには、まずこの点につき考察する必要がある。
K「ひろゆきさんと私に多分ですね、価値観というかポリシーのの違いがあって、それに対して何か議論を、こう、2人で戦わせようとすると、お互いに自分のフィールドに逃げてしまって、で、そのたとえ話が始まって…」
価値観やポリシーが一緒なら「議論」にはならない。「そうですね「そうですね」って、わらっていいとも状態にしかならない。
対話はあり得るだろうけど。
でも、対話しようという雰囲気を僕は感じ取れなかった。僕でない人は「いや、そんなことないよ」というかも知れないけど、もしそういうならちょっとそれを言うのは止して置いた方がいい。と思う。

CM開け冒頭までとりあえず非随意腹筋運動しながら見ると、自分の敷いたレールに乗ってもらいたい勝間とそのレールが安全か破壊検査をするひろゆきとのギャップが酷いのは確定する。というか、どうやっても乗ってもらえてないのであきらめてますが。

ひ「意)老人はカネ持ってるんだから起業して若者雇えばいいじゃないですか」
これもその通りで、老人がベンチャーキャピタルになるとかいうリスクもなくて、基本的に安定したいい場所にいる人が「若者は起業しろ」といっている。この20年間で多くの若者はリスクを取ることができないと学習している。公務員人気なんてその最たるものだ。だって、1年後ご飯食べられないのは誰だっていやだろう。若者は少なくともその蓄えはない。ならば、1年後もご飯を食べる余裕がある層が余りを活用すべきだ。「俺は倉の米出さないけど、お前のとこの畑から米出してこい」といわれて稲刈りして米を出すのはよっぽどのお人好しか、心理的強制がはたらいているかのどちらかだ。

ひろゆきは明確に、かつ複数回「起業したければすればいい」といっている。対偶は、「起業しないのはしたくないからだ」となるが、なぜ経験もカネもある老人がしないものを、どちらもない若者がしなくてはならないのか。カネ出してくれるの? 老人の皆さん。
K「若い人たちが起業する自由が減ってきている」
減ってきてるのは自由ではなく意欲か、あるいは資力か、そういう類のものでしょう。実際のところ、ソフトウェアの開発能力があるような人はつくっている。これは資力(ソフトウェアという無形財産)が既にあって、それに全生活を依存しない収入も別にあるからだろう。なければちょっとできるようなものではない。

日本で企業の新陳代謝がないという勝間の主張に対して、ひろゆきは「大企業が優秀だから」と言った。この結論は僕にはなかった。
イノベーションと陳腐化した産業の切り捨てという「選択と集中」の経営戦略の中にあって、たとえば1から10の事業部があって、「第1事業部は陳腐化したので第11事業部を立ち上げ、新規事業をやります」というような新陳代謝はあり得るかというイメージは持っていた。
たしかに、新製品が次々と出て、旧製品がなくなっていくというのは、森で言えば生長しなくなった木が枯れて、新たな芽が出ているということだ。これを産業に置き換えれば、消滅と発生成長とが大企業の中で両方ともあるわけで、別にこの両方が別の会社でなければいけないなんてことはだれも言っていない。

幸福度の話も抱腹絶倒ものでした。というより、日本人はいつからこんなに浅ましくなったのだろうかということを考えるに至った点で非常に有益でした。江戸時代は日照りや洪水、冷害などで相当の割合の国民が死んだでしょう。
今考えると、平成の米騒動で大量に餓死者が出たとは聞かないし(最近餓死者がでてもそれは似たようなちょっと違う理由です。)、洪水でも何万人とは死なないし、阪神淡路大震災でも1万人死んでない。江戸時代の感覚だったら10段階評価で10付くんじゃないかな。
ひょっとしたら、幸福度の高低は様々なファクターに影響され、そして、ファクターが多すぎて、正確な調査ができてないのではないだろうか。むかし「所さんの笑ってコラえて」に出ていた婆さまが「盆暮れに孫の顔を見られるだけで幸せ」といっていたのを非常に良く、心揺さぶられながら見た覚えがある。幸福度の高低というより、単に、どれだけストレスに晒されているかということと、日本人は欲張りなだけという話なのかも知れない。


で、勝間の「べき」論と、ひろゆきの「そういうもんでしょ」論。西洋の自然観と東洋の自然観とに似ていると感じた。前者は征服主義、後者は共存主義と言い換えられるかも知れない。

前者は理想があって、それ以外は理想ではないという見方で、理想から外れるものの存在を許してない。これに対して、後者は相当ユルくて、理想とほど遠いあってはいけない状態というのがあって、それでなければ合格点でいいじゃないという感じだろうか。「我知足」というか。

で、後者、ひろゆきの価値観が排斥される一因には、思考パターンの西洋化(キリスト教圏化)があるように感じる。規律から世界を作るのと、世界の成り立ちから規律を抽出するのと。演繹と帰納でいいんだっけ。

僕はここに壁があるけどとりあえず壁があるよね、というところからスタートするもので、壁があってはいけないというテーゼからは出発しないので、今回の対談を見る限りでは明確にひろゆきの考えに共感しました。


5/5日追記
勝間和代ブログ 「2chはIPの開示に積極的であるというひろゆきさんの注目発言について」を高木浩光氏が検証したまとめ

実名推進論者はインターネットを書籍だと思ってる。一方、それ以外の多くは社会そのものだと思ってる。だか らずれる。
http://twitter.com/S_T/status/13372852989

名前を出して活動している人の多くは、インターネットを道具としてしか見てないんですね。でも僕は違ってて、インターネットはどこでもドアだと思ってる。どこでもドアで出て行って、名乗らずに(そもそも対面もしてないで)一言言って、帰る。それだけ。だから、顕名でする行為ではない。たぶんひろゆきは僕の考えに近い(はず)。インターネットを道具ではなく社会だと思っている。だから、ああいうふうにずれる。

廃棄物法制を考える

富士に不法投棄の山 不況で業者が発覚後も産廃放置
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20100502/CK2010050102000231.html

不法廃棄(産廃・家庭どちらも)については、やったやつへのサンクションが薄い。産廃の場合はやった業者が倒産すれば代執行をしても費用の回収ができない。したがって行政負担になってしまう。かといって、産廃処理業者に負担させるとその分は解体業者などに負担が行く。すると、解体業者は処理業者に委託せず不法投棄をするだろう。これでは意味がないどころかもっと酷くなりうる。

では、解体業者および処理業者に税を課してそれを基金とし、不法投棄の代執行に伴う費用の穴埋めに使うのはどうかというと、これもモラルハザードが立ちふさがる。代執行してもらえるので不法に捨てても良いということになりかねず、改善しない。

すると、思い浮かぶのは不法投棄の厳罰化だ。法人はお取りつぶし、個人は無期懲役まであっても良い。なにしろ、不法投棄をしても大したサンクションがない(経済的・精神的な負の報酬がない)のでやるからなので、「やったら社会的に死ぬ」というのは十分抑止力になりうる。粗暴犯では死刑に抑止力がない場合があるが、経済犯なら本人が生きることを前提にする犯罪なので抑止力は十分にある。

ただ、厳罰化したところでなくなるわけではないだろうから、その、不法投棄されてしまったものをどうして原状回復するかという命題は残る。「不法投棄税」を新設して、不法行為の態様に照らして処理費用を税として徴収するのはあり得る。ただ、不法投棄をやるような所はどのみちヤバイので、実際は役所の持ち出しになってしまう。あまりにも歯がゆい問題だ。

ひとつには産廃処理業者に預け金をさせる手があるだろう。足りそうな額として、仮に5000万円としようか。中小は算入が不可能になるが、「(静岡県廃棄物リサイクル課によると)、放置する業者の大半が今回の建材業者のような中小業者」という現状からすると、中小の参入を阻むことで一定の効果はあるだろう。どうしてもやりたければ寄り集まって大きい規模でやって頂くしかない。
ただし、瓶等のデポジットとは異なり、事業は未来に渡って継続するのが前提だから、預かり金は事実上返還されない。

すると、株式会社での設立を義務づけ、預け金に当たる額は地元の公共団体へ株を預けるという方法もあり得ることになる。これだと株主という立場から強力に是正を求められることになる。

会社法は疎いので、株譲渡制度は法律上いけるのかどうかわからんけど、証拠を残すが故に足が着きにくいという投棄犯罪についてどう対処するのかという問題は非常にややこしいと感じます。

2010-05-02

あなたはこの世に1人か

再び博士の異常な鼎談。

宮崎哲弥氏の見る夢は30になる頃まで視覚がなかったという。ラジオを聴いているような感覚だったとか。

有名な夢と言えばベンゼンの環状構造を提唱したケクレの夢だ。ここでは創作かどうかは検討しない。蛇が自分の尻尾を噛んでぐるぐる回っていたところから環状の発想に行き着いたとか。

おもしろいのは、夢は完全に自分の脳内のみで紡がれるのにもかかわらず、自分ではどうしようもないことだ。思い通りに全てが進んだって良いようなものなのに。

通常、一人称は意識する自分を指す。その一方、自分には思考していることが分からない自分、無意識の自分が存在する。食べ物の好き嫌いをしたり、ウイルス感染時に発熱したり、意識の睡眠中に記憶を整理する、夢を見る自分。

ウイルスは別にしても、好き嫌いには規則性がないし、記憶の整理の方法というのも、意識の自分には全く理解できない。無意識の自分にしか与り知らないところのものだ。

で、こいつは主に僕やあなたが寝ているときに起き出してきて仕事をする。前述の記憶の整理だったり、肉体のメンテだったり、大事なことをしてくれる。やらなければいけない作業というのはそれなりにあるので、それには十分な時間を与える必要がある。つまり、よく寝なければならない。

だから僕は私のこの作業がwell-doneとなるために、可能な限り決まった時刻に決まった時間仕事をしてもらう。起きている間にすることはこの時間にしてもらう仕事を予めかき集めてくるようなものだ。だから、この考え方にたどり着いてからはあまり寝て過ごすことはなくなった。そりゃ休日出勤や早出や長い残業はいやだもの。

思い通りにいかないことの価値

見る夢はフルカラーっていうヨシダプロの言葉を以前に見たことがあった。
ひょんなことで空鼻の話をしたら夢の話になったもので、夢と現実と、少なくとも感覚には区別がないという話から宮崎哲弥の見る夢には視覚情報がなかったという話になり、それでもって博士の異常な鼎談のその回を教えてもらって今視聴了。

一般的に言う天才に属する人と、そうでない人の決定的な違いは脳だろう。ウサイン=ボルトは天才というかどうか。身体的な条件の良さはあくまで除いておく。

僕がバカ話に鼻下まで浸かったのはコサキンの影響だった。バカな話をしているリスナーが3月には合格報告をしていた。みな結構なところに合格したと報告していた。自慢できなさそうな所は報告しなかったのかも知れないけど、それでもなかなかいいところの名前が出ていた。

僕はそこで、「ひょっとしておバカな方が勉強もできるようになるんじゃね?」と仮説を立て、実行してみたが、効果の程は不明である。理由は2つ。まず、こういう発想は天才に属する人はするのか、あるいは凡人はするのか。そもそも僕はどっちか。もう一つ、何を以て効果測定をするか。この2点である。
まだ結論は出していない。そもそもまだ出すには早い。そういうことにしておかないと僕が不憫です。


さて、ずっと見ていたら映画の複数本立ての話になった。2本立てとか5本立てとか。5本立てだとこの映画は大便なんだけど、その次がおもしろそうなんだよなあ、と、そのクソ映画も見てしまって、それが後々糧になるだとか、2本立てのお目当ての方よりそうでない方がおもしろかった話とか。

人生思い通りにいかない方が良いということだってあるのだ。
そもそも、思い通りにいかない物なのだ。思い通りにいくのは幸運であり、場合によっては不幸でもある。

良い結果を欲して、果たしてその通りの結果が得られたら幸福か。答えはどちらとも言えると言うべきだ。欲しなかった結果ではなかったという意味に於いて前者であり、その程度の結果しか得られなかったという意味に於いて後者である。

フレミングの実験が思った通りに終わっていたら、ペニシリンは見つからなかっただろう。
マクスウェルの方程式が古典物理の通りのものだったら、相対性理論にたどり着くのはもっと遅れただろう。

予定通り、思い通りでないからこそ得られる幸運というのがきっとあるはずだ。

子供が思い通りにならないから虐待する、電車が予定通りでないので暴れる、相手の対応が予想と違うのでキレる。そういう話を頻繁に聞くようになってしまったが、そもそも世の中に思い通りになるものってそんなにない。首だって自由に動くと見せかけて、左右90度くらいしか動かない。3回転とかはしない。思い通りになるものなんて何もないといって差し支えないのではなかろうか。

だから、思い通りにならないから腹を立てるのではなく、思い通りにいったら素晴らしいと思うべきだ。JAXAの衛星「はやぶさ」の帰還を揶揄する論調を見た。「失敗なのに感動仕立てにしやがって」と。自動車ですら設計通りにいかないことがあるのに、宇宙船なら尚更だろう。着々と帰ってきているだけでも「思い通り」。素晴らしいと考えて良い。だって、理屈の上では上手く行くという「思いこみ」を実行しているわけで、上手く行く根拠はその「思いこみ」にしかないのだ。一種の実験。実験なのだから、意図しない結果があってもおかしくない。

都市化にともなって次々産み出された都市型思考の人間はこういうことを理解してくれない。予想どおりにいったのは当たり前でも何でもなくて、上手くいっただけのことですよ。

意図しない会話から意図しない動画に出くわすことになり、意図しない一言に出会って、実に幸福を堪能しました。思い通りにしか物事が進まないのなら、この幸福はなかった。

2010-05-01

○○詐欺(地球温暖化の巻)

http://www.google.co.jp/search?num=30&q=地球温暖化詐欺
(実際に表示されている物は異なります)

無駄遣いしないのはよいことだけど、無駄遣いしないために無駄遣いするのってどうなのか。

アルゴアの「不都合な真実」だっけ。あれ以降CO2で地球温暖化っていうのが誰も疑わない既定路線になった。

でも冷静に考えてみる。貝塚ってそれなりに高いところで見つかってるよね。温暖化で水面上昇が起こるというのならば、そのころはそれだけ暖かかったわけで。それ以降、なにゆえ地球は寒冷化したのか。そこら辺がどれだけ研究されたのか。

イノベーションや新規開発は必要とはいえ、

中学の頃からずっと使っていたシャーペンがあって、芯を繰り出すところのプラスチックが古くなったせいか割れて使えなくなった。

http://moonpaste.net/stmg/column/070301.htmlの「KNOCK PENCIL (RUBBER 100)」ってやつ。これのみどり。

惜しいながらも捨てたんだけど、同じものが欲しいなあと思ってググった。

廃盤ですよ奥さん。

絶望ですよ。あんな良いものが廃盤ですよ。しかも8年気付かなかったのか俺。

懐古主義はあまり誉められたものじゃないけど、それでも良いものがなくなるというのは切ないものです。限定数量で復活してもらえないものでしょうか。

上手く行くのか失敗するのか

休止の銚子市立病院が再開 地域医療が再生へ
http://www.47news.jp/CN/201005/CN2010050101000286.html
公設民営方式で、病院経営や医師確保は新設の医療法人財団が担う。
とのことだ。

で、たとえばこのあたりも併せて読んで頂きたい。
http://gurikenblog.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1d51.html
http://blog.m3.com/yonoseiginotame/20100113/9

すると、幾分問題点が見えてくる。
民間で黒字でできるなら公営である必要がそもそもない。
だから基本的に赤字となるものをやらねばならない。
給与待遇面で病院に勤務地としての魅力がない。
病院にそもそも代わりがある。
などなど。

潰した病院が復活というのは寡聞にして聞いたことがないので、公設病院がこれからどういうふうになっていくかという貴重な例になるのかと思います。

とりあえず市長は「モンペ(モンスターペイシェント)が現れて医師が疲弊するようなことがあれば潰すよ」くらいのことは言っておいても良いのではないかと思います。

どことどこを比較しての格差か

以前は違憲だと思っていなかったんだけれど、いろいろと考えるようになってきた。

1票の格差、札幌高裁は「合憲」 昨年の衆院選
判決理由で井上哲男裁判長は、格差の要因で、人口と関係なく都道府 県に1議席を配分する「1人別枠方式」について、「人口の少ない県に住む国民の意思を十分に国政に反映させることを目的としており、一定の合理性を有す る」と判断。
http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010042701000469.html

4月27日の判決だけど、まだ裁判例として掲載されていないのが残念。是非とも原典に触れたい。

さて、以前はこう考えていたので違憲とかどうでもいいと考えていた。
・同じ選挙区の中にあっては皆同じ1票だし、他の選挙区に投票できるわけではないので比較すること自体が無意味。
・投票したい候補がそもそもいない選挙区ではどうしようもない。このときは一体何をどうして不満を表せばよいのか。
という理由からである。

「あっちは10万人で1人の代議士を国政に送り込めるのに、こっちは30万人でようやく1人。この差は何?」 ということに気付いたのは情けないながら最近のこと。なるほど、言われてみれば確かにそうだ。

個人的には札幌高裁の見解に賛成する。それは、私が一極集中反対論者だからだ。

東京都、1300万人を突破 区部の人口増目立つ http://www.asahi.com/national/update/0428/TKY201004280097.html
 人口が1億3千万いないこの国の人口の1割が東京都にいる。国勢調査がしばらく前なのでちょっと資料としての鮮度が落ちるが、東京都特別区の常住人口は平成17年現在835万人だ。(http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/jutsu1/00/03.htm)

450万人程度が市部に住んでいることになる。

ここでちょっと想像してみる。おおむね23区の住人は市部の倍だ。単純に全員の票を平等に割り振ると、区部は市部の倍の議員を都政に送り込めることになる。すると、単純に2/3は区部の議員、1/3は市部の議員。平等の名の下に伊豆諸島・小笠原諸島の議員は1人もいなくなるかも知れない。

2/3を掌握すれば区部の議員は結託して市部にあれこれを押しつけることが可能になる。昔江東vs杉並連合ゴミ戦争みたいなのがあったが、「よし、狛江に焼却場作ろうぜ。23区は狭くて辛くて大変なのよ」となったら、市部の住民は我慢して頂くことになる。これって平等なのだろうか。


全国で考えてみる。鳥取の人口は60万弱。2人の選挙区にしよう。茨城県は300万弱だから10人の選挙区になる。東京都は1300万だから45人くらいかな。東京都の人口はおおむね日本全体の1割なので、衆院の定数が480であることと合わせるとだいたいこんなもん。人口30万につき1人程度となる。

田舎の人間からしたら都会はズルいですよ。人が多いので回収が容易なため、民間のどんどん投資が進む。田舎は人がいないからインフラが来ない。都会は人が多いため人材を求めて求人も集まる。地方から人間を吸い上げる。人が多く税収もあるため公共サービスもそれなりにできる。


一方、無駄遣いもするわけです。
過密のために溢れた交通インフラの拡充・補強のため、地方なら数十億でできる公共事業に数千億も投じられる。どう考えても無駄ですよね。

その上、代議士の数も多くなると言うんだったら数の暴力じゃないですか?
生活が便利なんだから少しは黙ってろと言いたい。
こういうと、田舎の人間に対して「お前が引っ越せ」と言うんだろうけどさ、
そうしたら農業政策ズタズタになるでしょ。極端な話、都市部に日本の人口の9割、地方に1割になったらどうよ。そんな状況下で地方に税金が投入されるわけがないじゃない。

単純に農地面積や山林面積を勘案した可居住面積で代議士を割り振ってもいいんじゃないですか。

個人的には、都会の住人は(たとえば4代住んでる人を除いては)もっと軽視して、地方に人が散らばるような政策を実行してもよいと思います。安全保障の面からも。だって、田舎で大地震があってもそんなに人は死なないでしょ。今の東京だったら1万人は死ぬよ。これが東京の人口が半分になれば、5000人で済むわけです。

1票の格差に不満がある人は、是非引越しすることをオススメします。おまえらどうせニワカ都会民なんだろ? 中国と違って日本には住居移転の自由がありますので。