2010-04-25

次回予告

都市ガスとプロパンガスが初めでした

同じこと、違うことの価値

変わること、変わらないことの価値

2010-04-22

日本人を考える

日本人の気性や特性についていろいろと思案していると、気候・風土が国民性の醸成に大きく寄与しているという考えが頭をもたげてきている。というか、気候風土が影響するのは当たり前っちゃ当たり前か。

日本人の特性として、私が認識しているところをいくつか挙げてみると、
改良が得意
新しく画期的なものを作るのは得意でない。
小さく作るのが得意、緻密で細かいディテールに定評がある
社会を変える「仕組み」を作るのは上手くない、戦略性・ビジョンに欠ける
時間に正確


こんなところだろうか。あくまで主観なので、いろいろと外れているところがあるかも知れないし、足りないところがあるとは思うが、そこはもし読んでる人がいたら指摘していただけると嬉しい。

んで、これらは皆気候風土の賜物だと捉えている。美醜両面で。

改良が得意なのは地理的条件によると考える。つまり、大陸から途絶されており、技術や思想、あるいは道具や器械そのものが容易く入ってくることはない。そのため、その仕組み自体に詳しくなる必要があった。直すか、コピーをしなければ困るからだ。仕組みが分かれば、あとは好きなように改造できる。だから改良が得意なのだ。

新しく画期的なことが苦手なのは、自然災害のせいである。地震で壊れる、火災で燃える、洪水で流される。台風で吹き飛ぶ。元に戻すだけで精一杯だ。そして、戻せば事が足りる。
それに、自然が豊かだったので新たな何かを開発する必然に迫られることもなかったのではないか。
ここらへんは「余裕ができれば新しいものが生まれる」というのと矛盾する。日本の上流階級はおおむね文学や音楽に傾倒し、発明などには傾倒しなかった。数学や物理等の実学や発明改良が発展したのは武家社会となった鎌倉時代より後だ。(鍬や万能は室町より後だったと記憶)。
なぜ日本には錬金術の影響が薄いのだろうか。

小さく作るのが得意なのはよく分からないが、「改良」で述べたところの仕組みを学ぶ姿勢にあったのではないかと推測する。改良や複製には、そのものの本質を掴む必要がある。小さく作るというのは、一種エッセンスの抽出とも言える。地理的条件が本質の理解の能力に影響しているのではなかろうか。

「仕組み」が苦手。というのはここ最近という気がしないでもないが、言い換えると「戦略」と、インフラの把握だ。ここら辺は今だとアップルがうまい。ipodは携帯型フラッシュメモリプレイヤーだが、このキモはitunesだ。itunesを中心とした「仕組み」に足りなかったのが端末だったので、アップルはその端末を作ったに過ぎない。iphoneも同様だ。
太平洋戦争で機動艦隊が空母時代の幕開けとなった。これは今では画期的だと捉えられているが、当時の日本軍は大艦巨砲主義からの脱却は結局できなかった。価値観をひっくり返す事自体は、日本人もできるのだが、枠組みそれ自体を意識して作って利用することとなるとさっぱりと言ってよさそうだ。
やはりこれも自然の厳しさゆえなのだろうか。自然が破壊するので理想を推し進めるよりも現状に即して構築していくという、悪くいえば「場当たり的」な対応が最善と捉えているのだろうか。

時間に正確なのも、四季と自然災害のゆえだろう。
早く種まきをしないと梅雨になる。暑くなる、台風が来る、冬になる。のんびりしている時間はない。時間に厳しくなるのは当然だという気がする。

まだまだ考察が甘いけども、検証のしようもないのでこのあたりにしておく。

2010-04-17

人の神経を逆撫でする思考、ファンにする思考

「素直になれなくて」とかいうドラマが始まったそうである。なお、私はノンフィクションばかりに興味が行く人なので、フィクションはまず見ない。見るとしても、人の極限状態の心理を描くサスペンスものがせいぜい。

とあるTwitter ドラマ脚本家の本音

で、その脚本家がやらかした。批判をするのは簡単で単純でかつ非生産的、言い換えると時間をカスにする行為なので、可能な限り発展的に創造的に分析しつつ、批判があったときに如何にそれを的確に捌くかということを考えたい。

まず、何をしくじったかどうかという点は措き、批判があったという事実はとりあえず認めるべきである。論理がどうであれ、不快に感じるということは肯んぜざることなき事実であるからだ。それを相手の狭量さなどで理由付けをしてしまうのは下策である。TOYOTAがプリウスのブレーキ騒動でやったのと同じ手口だ。

TOYOTAの場合は「フィーリングの問題」という一言で片づけさせてしまった。これはこれでエンジニアの理解としては正しいのだろう。しかし、「問題」という単語を用いることで暗に「そう感じる方が悪い」というニュアンスを出してしまったことがひとつの問題、もう一つは「フィーリング」というどうしようもないものを持ちだして歩み寄る態度を見せようとしなかったことが問題だった。「動作自体は我々の想定通りであって、ここに問題はなかったのですが、今までのクルマとのフィーリングの違いについてご理解いただくことについて手を抜いたため、不安に感じさせてしまった」と言っておけば良かった。

さて、不満や反論が出てきた場合は、相手が仇敵であって、論破のみが利益なら反撃すべきだ。しかし、通常、まずはそういう意見の存在を受け入れなくてはいけない。速攻で反撃に出るのはよほどの場合を除いては下策だからだ。ここで気をつけるのは、意見そのものを丸飲みすることは必要ではないということだ。ここで受け入れるのはそういう意見が存在するということ、そして、そういう意見が存在するからにはそれなりの理由があるのだろうと気付くことだ。あとはここを深掘りすることで関係が好転するような解決策へと向かうことができるようになる。

社会においては、意見は対立しているけれども相互に利益を受ける関係というのは非常に多い。TOYOTAとユーザーは意見は対立したが、持ちつ持たれつの関係であることに異論は無かろう。脚本家と視聴者の間にあっても、それは同じはずだ。おもしろいものを提供し、それを視聴者が楽しむことによって、脚本家も良い評価を受ける。そういう共生関係にあっては、先ずは相手の意見の存在を受容することが先決である。

次に、失敗を正当化してはいけないということだ。失敗は失敗。次は上手くやる。それだけでいい。弁解して正当化することは通常火に油を注ぐという結果を招く。

3つめ。「おまえもな」「お前が言うな」は反撃でやってはいけない。なぜなら、これも自己正当化だからだ。もう一つ、批判反論は多くの場合上からの目線でなされる。これに対して「分かってないっていうけど、あんたも分かってるっていうの?」は火にガソリン。なぜなら、その視点の更に上を行こうとする行為であって、批判や指摘をした人の自尊心を損ねるからだ。反論をするのであれば、自分の視点がどこにあるかを真剣に探りつつしなければいけない。また、有名人に属する人間は、普通に接しても傲慢だと取られやすい。この点についてきちんと補正を施さなければいけない。

「別に、ツイッターってそんな大したもんじゃないでしょ?人のかたわらに、ぼくを使って、便利に。ってある、それくらいのもんでしょってことが言い たいわけです。」という文には2つマズいところがある。4つめは、相手が評価しているものを貶すなということ。5つめは、理解していないものを貶すなということ。非難する側には「全部は分からんが、どうやらツイッターは相当の可能性がある」と思っているかどうかは知らないが、とにかく評価はしている。それを貶すのは宣戦布告である。だから、してはいけない。分かってないものを貶すのもやぶ蛇だ。「分かってないのに批判するな」といわれるに決まっているからだ。分からないのに貶して良いのは、解説がわかりにくいときにその解説の拙さを批判するときに限る。

「そんなことはないんだよ。そういう悲しい一面的な考え方って、人生がつまらないじゃないですか?」も失言だ。「ない」というネガティブワードを用いた上で、「悲しい」「一面的」「人生がつまらない」と、批判した人間の人格を攻撃した。愚策である。説得をするつもりであれば最もやってはいけないことだ。言い換えるのであれば、「ご指摘のように取られたのであれば残念です。可能ならばアッパーに、複数の考え方で捉えていただければ良かったし、そうできなかった点に至らなさを感じています」とでもするのが良かった。相手を攻撃してはいけないのだ。相手に責任転嫁をしたいときにこそ、相手の攻撃は自分の感じ方として、相手にいいたいことは願望として、願望というわがままは自分の力不足として、相手に言葉を投げつけるのではなく、相手にくみ取らせるという手法を使うべきだった。6個目と7個目の失策である。

失望すべきは、物書きが自分の書いたことに責任感を全く持っていなかったということだ。ツイッターを話題にしたドラマという時点で、話題のものの名前だけうまいこと便乗してメシウマを目論んでいるという風に多くの人間が感じたはずなのだ。果たしてそうだった。こういうふうに感じさせてしまった時点で相当のディスアドバンテージだったのだ。騒ぎを好まないのであれば不用意な発言を避けるべきだし、即座に失言を認めておけばここまで注目を浴びることはなかっただろう。


フィクションには興味はないのだが、やりとり事態はノンフィクションでおもしろかったので、危機管理という視点から書いてみました。

2010-04-12

目指したもの

昔、カメラは二眼かレンジファインダーで、これは視差(パララックス)が避けられなかった。実際にフィルムに届く光とは別の光を見ながら、フィルムに届く光を調整しなくてはいけなかった。

これを解決したのが一眼レフ。カメラ内部にペンタプリズムとミラーを内蔵して、シャッターを切る前はフィルムに行く光を見ながら構図やら明るさやらピントやらを調整できる。ただし、フィルムに届く光をミラーでインターセプトしているので、シャッターを切って感光させるときにはミラーが跳ね上がって、その瞬間はファインダーからは何も見えない。一眼レフの宿命。

で、マイクロフォーサーズ(m4/3)の一号機としてPanasonicのDMC-G1が出た。それ以降矢継ぎ早にPanasonicはm4/3機を投入している。OlympusもPen E-P1の投入以降3機種を送り込んだ。PEN-FTがデジカメになったら絶対買うと吹聴してみたら数日後に発売という話があったので半分歓喜、半分しまったと思いつつ予約。10万だったら、他に先につぎ込むところがあるでしょ俺。

そりゃコスパを考えたら別のやつ、具体的にいうとパナのやつの方が良かったんだけど、僕はPEN-FTの思想と形とが好きだった。形状と思想というパフォーマンスを評価した。あとは、それまでのデジカメでもファインダーはあったけど、実際は液晶見ながら撮るよねという観察の結果も勘案していた。

「見たままに撮れる」のが一眼の要諦だとすれば、今までの全てのデジカメは、液晶画面をファインダーとして利用する限り全て一眼形式だったわけだ。m4/3は、レンズ交換式という一眼とは「無関係」な要素をコンデジの世界に取り込んだ。一眼レフとレンズ交換式は事実上セットだけど、レンズ交換式は須く一眼レフであるべきとはならないのがキモ。

で、ふと理解した。「一眼」と呼ばれるには、覗き込み式ファインダーと交換可能なレンズの両方が必要なようだ。厳密に言うとe-p1は一眼じゃない。まさにレンズ交換式コンデジ。


さて、そんなことにも気付かずE-P1を買ってしまったアレがナニなわたしですが、m4/3のフランジバック(感光部とレンズマウント部の後端との距離)の短さに可能性を感じたのですよ。ここの距離が短ければ、スペーサーを挟むことでもっとフランジバックの長いレンズが使えます。まさにレンズ沼まっしぐら。いろんなレンズを使うことが可能。実際は標準レンズでだいたい満足してます。新しいレンズ、欲しいと言えば欲しいけど、むしろ無いからこれをどうしようかと知恵を捻ったりするのもまた楽しいもので。


昔は、写真は主に紙で鑑賞するものでした。写真展でもポジフィルムを映写して展示って見たことがないし。紙に焼いて見るものを、紙の上ではなく光をそのまま見ていたわけです。

今ではデジタルフォトフレームだったり液晶画面だったりでの鑑賞の方が主流ではないかと感じてます。で、ファインダー自体も液晶。鑑賞手段とファインダーとが一致することになるわけです。昔よりも見たままを撮ることができて、鑑賞するままに撮ることができる。
EVF方式への移行は自然な流れだと思っております。

壊れちゃうと簡単に直せないものへと道具が変わっていくのは残念といえば残念ですが。

ということを、考えておりました。
http://j.mp/ddhbCl 日経エレクトロニクスより

食糧問題解決の可能性

日本人の腸だけに存在?:海藻を消化する細菌

http://wiredvision.jp/news/201004/2010040923.html

一部の日本人の腸には、海草類に含まれる炭水化物(セルロース?)を分解する酵素があるそうだ。
ただし、次の記述を読む限りでは、これは先天的な特性ではなく、食べるものによって後天的に獲得することができるらしい。つまり、日本人に固有の性質ではないということで、世界中の誰もが後天的に獲得できる可能性があるということ。
Czjzek氏は語る。「昔は海藻は殺菌されていなかった。現代では海藻は、火を使って準備され料理されるので、こういった移転が起こる可能性はかなり 低い
確かに昆布巻きもヒジキも煮てしまうし、出汁昆布も一度煮立てる。乾燥ワカメに細菌が生きている可能性は限りなく低いし、最近売っている海苔は焼き海苔ばかりで、そこに細菌が生きている可能性はなかろう。

だが例外はあるもので、思いつく限りで3つの可能性はあった。1つは出汁昆布。出汁昆布は煮て殺菌してしまうと大事な旨味が逃げてしまうから煮ていないはずだし、昆布にはたいてい「汚れていたら拭いてから使え」とあるとおり、洗ってもいないはずだ。

次は、塩蔵ワカメ。ワカメは火を通すと色が鮮やかな緑色になるが、言い換えると未加熱の状態で流通しているということだ。海水中で生存している細菌なら、塩分には強い可能性はある。

終いが海苔。最近でこそ海苔と言えば焼き海苔ばかり(佃煮海苔はさすがに煮てしまっているので除外)。それでもなお一部では干しのりがまだ入手可能だ。干しのりは簡単に見分けられる。明かりにかざしてみて、真緑なら焼き海苔だが、干し海苔なら紫がかった部分があるはずだ。

干し海苔は今でこそマイナーだが、昆布とワカメはまだまだポピュラーだから、Czjzek氏が日本に来ることがあれば、僕と同じことに気付くかも知れない。

2010-04-11

アドバイスは分かってる人に貰う

今日は前の職場の友だちとゴルフ練習場へ。練習場は3年以上行ってない。
教えて貰ったらちゃんと打てるようになりました。
教わるならできる人に。

2010-04-09

少子化対策に本当に必要なもの


少子化対策は選択的夫婦別姓、子ども手当て、男女共同参画、育児休暇の充実、待機児童の解消などという「小手先」の施策で解消するものではない。小田嶋 隆氏はここらへんのうちのひとつを看破している。


子ども手当も、あれは、必ずしも現実の子供のための施策ではない。(略)

少なくとも、少子化対策ではない。

的外れだ。

というのも、少子化は、子供の問題ではなくて、父母の問題だからだ。 
子供は勝手にそこら辺から生えて来るものではなく、明確にその意志を持った人間によって"生産"される。だから、新たに生まれてくる子どもが少ないというのは、まだ2人以上の父母になってない人間の問題。

次に、子供手当て自体はこれから出産しようという人向けではなく、実質的に既に出産を終えた人向けの施策であるということだ。子供手当てがあるからといって子作りに励むカップルが果たしているだろうか。マスコミのインタビューも既に子どもがいる人間向けに終始していた感がある。大事なのは今生きてる子供が育つことじゃない。新たに生まれてくる子どもが増えることだ。誰もそこに突っ込まない。
父母候補であるところの若い人たちの人生観の問題――というよりも、少子化は、「若者の○○離れ」という言い方で総称される広範な現象のうちのひ とつなのだ。

「若者の野球離れ」「若者の活字離れ」「若者のビール離れ」「若者の結婚式離れ」「若者のクルマ離れ」……と、あまたある若い人たちの消極化傾向のひと つに、「子供離れ」(あるいは結婚および出産離れ)がある、と、そう考えなければならない。

人間離れではない。が、若者は、若者離れしている。まるで老後の子供みたいに。

原因は、おそらく、彼らの未来に希望が見えないからだ。

必ずしも、貧しさそれ自体が、彼らをシュリンクさせているのではない。
「死に至る病」そのものですね。

四十年前の若者は、いまの若者と比べて、より貧しかった。が、その彼らは、いまの若者よりもずっと消費的で、より活発で、享楽的で、楽天的で、宵 越しの金を持たなかった。

なぜか。それは、彼らが「右肩上がりの未来」を信じていたからだ。現在は貧しくても、明日は今日より良い日になる、と、そういうふうに、時系列に沿っ て、あらゆる事態を楽観していたからだ。

が、現代の若者は、先行きにあまり期待していない。

先すぼまりの感じを抱いている。
まさに正鵠ど真ん中。戦争直後、広島と長崎には最強最悪の兵器「核爆弾」の爪痕が残り、今では人口800万を擁する東京都特別区も焼け野原。食料はコンビニの廃棄弁当なんて想像もつかない状況だったろう。今では少なくとも芋がらを食べようとは思わない。

でも、少なくとも働いたら働いただけ暮らしは良くなると信じることはできた。周りは焼け野原なので当然といえば当然かも知れない。更に悪くなるということはあるとしても富士山大噴火か、日本沈没くらいのものだろう。


お国が、本当に少子化をどうにかしたいのであれば、なによりも先にまず、若年層に向けた安定雇用の施策を打ち出さねばならないはずだ。

少なくとも、若者が若者らしい浪費に邁進できる未来を、たしかなビジョンとして提示すべきだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20100408/213891/?P=4


少子化、高齢化、地方経済の低迷、税収、年金、待機児童問題、子育ての孤立化、などなど、いろいろな問題はあるだろう。

ただ、そのうち少子化に関する問題は雇用と収入の安定で改善可能な問題だということだ。雇用と収入が安定すれば、将来設計ができる。何が何でも子どもは欲しくないという人間はそうそう多くはないだろう。余裕があれば持ちたいのが人間だろう。
あるいは、発想を変えてみよう。出生率が高いのは子供にも労働力が求められる途上国が多い。ならば、子供も働かさないと生きていけないような苛烈な国家を目指してはどうだろう。少なくとも出生率は上がるだろう。そんな国はまっぴらゴメンだけど。


と書いている間に、関係性のある2つの記事。

ある日の取材帰り、電車の中で隣に並んだリクルートスーツ姿の女子2人が、大きな声で話していました。

「落ちた企業の商品なんて、もう絶対買わないよね」

「あんな会社、もう社名すら見たくない」

未来の日本や消費を担う学生たちに、そう言わしめるような就活でいいのでしょうか。


こうして消費意欲を減退させて一体何になるのか。人を採る方の年寄り層は、既得権益を捨てて何が本当に自社のためになるのか、自国のためになるのか、深く考えた方がいい。

でも、私たちには本当にそんな余裕はなくて、こと経済面に関しては夢なんて見ていられないということくらい、この消費傾向を見て分かってほしい。 私たちは別に、車や酒を嫌っているわけではないのです。手に入るならほしい、けれど今の私たちにはその代償を支払う余力がない。ただただそんなシンプルな 理由で避けているだけです。そんなこと、きっととっくに分かっているのでしょうけれどね。分かっていて知らぬ振りを決め込んでいるんだ。

そして、私個人として願っていることは、これ以上私たちにまとわりつかないでほしい、ということです。もはや、私たちや私たちに近い世代全員を助 けろとは言わない。ただ、バブルという海溝の向こう側にいながら、私たちを『若者亡国論』の首謀者に仕立て上げようとするその企みを再生産しないでほし い。あなたたちが私たちを勝手に分類し、ラベリングして貶め、過度な期待=重荷を負わせ、役立たないアドバイスを押しつけないでほしい。そういう言説を読 む度に私はえらくしんどい気分になってしまって、たまにはこういう質の怒りをはっきり表明しておきたいと思いました。


2つはどちらとも消費性向に関する論述だけれども、別に子供だってクルマや酒と何ら変わらない。それと関わり合い、ともに時間を過ごし、楽しむという点において。

大事なのは、お偉方が自らの報酬を削ってでも若年層に安定した雇用と収入を約束することだ。多少削れば1つの企業で3人は雇えるだろう。多額の役員報酬を支払っている企業がみな数人雇用を増やすだけでちょっとは違うはずだ。

「法人税下げてくれ」だけじゃなく、「人雇うから法人税下げてくれ」くらいのバーターはあっても良いんじゃない?

2010-04-04

cherry blossom scattered

いつからか「折角だから」という動機を積極的に使うようになった。それ以前はそういう理由では決して動かなかった。何かにかこつけて、やらない子供だった。

人生なんて死ぬまでの暇つぶし。しなくて我慢できる人はしないで良いし、我慢できない人はしたらいい。我慢できるとしても我慢しなくても良い。畢竟、好きにするべきだ。


バイクもカメラもやるものの、バイクの写真はほとんど撮っていない。自分で撮影するというのは、原則として「自分の視覚を切り取って保存」ということだ。一人称視点のスクリーンショット。僕にとって僕のバイク自体は一人称に属するものだから、被写体にするという視点はあんまりなかった。ひょっとしたら、心境の変化というヤツなのかも知れない。


自動車とバイクとは根本的に異なる。バイクの方がおおむね汎用的でないし実用性もない。つまり、趣味性が高い。悪意を持って言えば「無駄なもの」。よく言えば「あそび」。キリストは、人はパンのみにて生くるにあらずとおっしゃったそうだが、バイクは僕にとってパン以外のもののひとつである。


適当に歩き回って少しでも興味を持ったら触れてみるのがいい。一期一会。せっかくの機会だから楽しまなくてはもったいない。そうして、見たことも名を知りもしない物に出会う。
これは何という木でしょうか。


写真の構図で俗に「日の丸構図」というのがある。馬鹿にされる。理由は、全体を収めようとしてしまうため、被写体は小さくこぢんまりしてしまって、それでいて背景ばかり大きくなってしまい、つまらなくなってしまうからだ。
これを避けるのは簡単。まず、全体にピントは合わないとあきらめてしまう。もちろん、最近のカメラは優秀だから、自動で全部の被写体にピントを合わせてくれる。合わせてくれるんだけど、合わないものだと認識しておくのが先。露出だって全部について最良というわけにはなかなか行かない。(だからハイキー/ローキーで遊べるわけだけど。)

具体的には、次のようなやり方から徐々に自分の好みの構図やピントの合わせ方を感じていけばいい。

1)まず日の丸構図に構えて、シャッターを半押しにする。これで、大概のカメラではピントと明るさが固定される。
2)あとはピントのあった場所を中心から外すだけ。

あとは、寄って短いシャッタースピードで撮る。これだとピントの合う距離(被写界深度)が薄くなるため、撮りたいものだけにピントが合い、写したくない物をぼかせる利点がある。

恥ずかしげもなく自分で写した写真を他人の目の触れるところに置いてみたりしているが、それでもやってるのは上に書いたことだけ。もし僕の写真を上手いと思ってくれたなら、真似して下さい。やってみたら簡単だと分かりますから。


種では増えないはずのソメイヨシノでも、株によって開花のタイミングが違う。十人十色、百花百様なのですね。たとえわかりにくくとも、多少の違いはあるものですね。

Wendy's 日本再上陸祈願

2009年の大晦日を以て、ダイエーの大内功氏(功の右は刀)が日本に持ち込んだWendy'sが日本から撤退しました。
もう3か月です。

バーガーキングも撤退前に良く行っていたものです。記憶とはズルいもので、撤退前の方が美味しかったように感じてしまっております。

私が初めて自分で買って食べたハンバーガーは、Wendy'sでした。赤髪に白い顔のあいつがマスコットのアレではなく。
記憶に誤りがなければ飯田橋店でした。神楽坂下から少し登って右側。
正確に言うとハンバーガーではなくチキンサンドでしたが。

うむ。敢えて申し上げる。We hope Wendy's coming back to Japan !
スーパーメガウェンディーズ、チリポテト、たぶんみんな待っています。

とりあえずハッシュタグだけ設定してみます。
別に署名を集めてどうこうしようとか、たくさんRTされたらどこかの企業にお願いするというわけでも、
私がフランチャイザーをやるわけでもありませんが、
ウェンディーズが懐かしくなったら是非お遣い下さい。
ビジネスですから、儲かると思えば再上陸させてくれるところがあるかも知れません。
そのときを願って、

#wendysbk2jp

2010-04-03

regulars and irregulers solution

夕べちょっとばかりおもしろいことがあった。

正社員か否かで世の中を二分しても、何も解決しません。どのような立場でも誇りを持って安心して働ける世の中にするために、あなたは正社員を憎むだけですか? RT @: 残念な小島さんのコメント、フリーの人間は日々生きるために真剣なんだよ。(一部誤字訂正)
 ちなみにこの翌日、小島のオジキはフリー予定と報じられた。



個人事業者、中小、ベンチャーはみんな非正規なので、世界を正規非正規の2つに割って、非正規は可哀想な人と一緒くたに括るのは、あまりよろしいとは思わない。農家も漁師もおおむね非正規だろう。

なんだかんだいって、人生は優勝劣敗である。助け合いだとか思いやりなんてものは「幻想」だ。福祉なんていうのも同じ類のものだ。弱者救済のためのものなんかじゃない。"Friend in need is friend indeed."なんてことわざがあるが、あなたが辛いときに助けてくれるのはほんのひとつまみの人間だ。具体的にいえば地球上に4人いないだろう。大概は「頑張って」というだけで、決して手は伸ばさない。肉体的あるいは精神的にタフでなかったら、普通の生き方はあきらめて頂くしかない。

「どのような立場でも誇りを持って安心して働ける世の中」などというものは、北朝鮮にしかないのだ。人間も動物であって、人間同士で生存競争をする以上、絶対にあり得ない。あるとしてもそれは安易な現実逃避、安易な妥協だ。

不況という一種の飢饉の中では、他者を出し抜いて欺いて他人の分を取り上げてでも食わなければ死ぬ。生きている方の理屈に立てば確かにごもっとも。カルネアデスの板の話をするまでもない。住宅ローン、自動車ローン、毎月のお小遣いを守るためには他者を蹴落とすのも致し方ない。

ところで、オジキの発言は図らずも、正社員は実に美味しい立場であるということもあぶり出している。非正規雇用をフリーと呼ぶ人は、冗談めかして言うのでもなければ、絶対に、いない。
たぶん、自分がフリーになって会社員ではなくなることとの関係でああいう反応の仕方になったのだろうと思うが、(え、オジキってそんなに繊細なの?)

ここで話を横道に逸らす。

まず、平成の大不況は「天災」であるということ。もちろん"ヨーダ"宮沢がヘマをやらかしただとかいろいろな人的原因はあるが、カタストロフィックという点で天災と申し上げる。

次に、日本においては正規に非ずんば人に非ずといった「暗黙の前提」があるということだ。日本は新卒採用した人間はそのまま企業のマネーで職業訓練を受ける。これに対し、非正規では職業訓練を受けることがまずない。第二新卒といわれる25歳程度までの若年者の雇用が増えてはいるが、これも新卒での雇用が行なわれたことが前提である。新卒で雇用されなかったことは平成不況において一種の入れ墨といえる。25を超えれば未経験者採用は限られる。30を過ぎればそれもなくなる。35を過ぎれば生活保護の方が高収入。

本来、正規雇用という既得権ゲット組はフリーでは生きていけない連中がやることだ。本来は。群れを作るのは群れを作る必要がある生き物ばかりだ。有能な方は集団に頼らずともやっていける。
ところが、今では1人でやっていける個体ばかり群れに位置し、本来そこに置かねばならぬ「弱者」が追いやられてしまった。

正規雇用は一種の生活保護なのだ。


さて、「解決」。解決にもいろいろある。僕の考えのようにテロリズムで社会を変えるのが最も良いだろう。実際、10人程度の命を以て派遣業法は変わろうとしている。交通事故で年に5000人死んでもそれで社会は変わらない。でも、やり方次第では変わる。これ以上に効率的な手段を僕は知らない。逸失利益は1人あたり3億円としても35億円程度。しかし、元手はほとんど要らない。金で注目を浴びようと思ったら才能はいるし、35億では足りないだろう。

もっとも、これは皮肉だ。テロなんてないならないに越したことはない。

話を元に戻す。
福祉や思いやりは「幻想」と断言した。弱者は助けてもらえない。年金や保険の類は、強者が弱者に転落したときのための「保険」だ。純粋に弱者のためのものではない。強者の自己救済である。

さて、では、好況下では生きる糧を与えられた弱者は、仮想飢饉下ではどうしたらよいか。助けは何もない。答えは既に出ている。群れを作るのが最適だ。自然界では弱い生き物は皆群れる。ならば、弱い人間は群れるべきだ。強い連中が群れているのだから、尚更弱者は群れねばならない。

2010-04-02

2度美味しい

気付くともみじが好きだった。たぶん、僕が天の邪鬼でなければこんなことはなかったはずだ。
この時期はみんな桜がすき。桜も良いけど、僕は染井吉野のりは八重桜だったり山桜だったり鬱金だったり、マジョリティでないものが好きだ。


もみじは春も良い。


青しだれという品種だけれども、できれば赤しだれも欲しい




どこかの道の駅で売られていたヤマモミジの盆栽。芽生えが鳥っぽい。



山椒も芽が出てきた。今年は実がなるだろうか。

おまけ。この時間帯のコントラストは本当に美しい。