2010-05-02

思い通りにいかないことの価値

見る夢はフルカラーっていうヨシダプロの言葉を以前に見たことがあった。
ひょんなことで空鼻の話をしたら夢の話になったもので、夢と現実と、少なくとも感覚には区別がないという話から宮崎哲弥の見る夢には視覚情報がなかったという話になり、それでもって博士の異常な鼎談のその回を教えてもらって今視聴了。

一般的に言う天才に属する人と、そうでない人の決定的な違いは脳だろう。ウサイン=ボルトは天才というかどうか。身体的な条件の良さはあくまで除いておく。

僕がバカ話に鼻下まで浸かったのはコサキンの影響だった。バカな話をしているリスナーが3月には合格報告をしていた。みな結構なところに合格したと報告していた。自慢できなさそうな所は報告しなかったのかも知れないけど、それでもなかなかいいところの名前が出ていた。

僕はそこで、「ひょっとしておバカな方が勉強もできるようになるんじゃね?」と仮説を立て、実行してみたが、効果の程は不明である。理由は2つ。まず、こういう発想は天才に属する人はするのか、あるいは凡人はするのか。そもそも僕はどっちか。もう一つ、何を以て効果測定をするか。この2点である。
まだ結論は出していない。そもそもまだ出すには早い。そういうことにしておかないと僕が不憫です。


さて、ずっと見ていたら映画の複数本立ての話になった。2本立てとか5本立てとか。5本立てだとこの映画は大便なんだけど、その次がおもしろそうなんだよなあ、と、そのクソ映画も見てしまって、それが後々糧になるだとか、2本立てのお目当ての方よりそうでない方がおもしろかった話とか。

人生思い通りにいかない方が良いということだってあるのだ。
そもそも、思い通りにいかない物なのだ。思い通りにいくのは幸運であり、場合によっては不幸でもある。

良い結果を欲して、果たしてその通りの結果が得られたら幸福か。答えはどちらとも言えると言うべきだ。欲しなかった結果ではなかったという意味に於いて前者であり、その程度の結果しか得られなかったという意味に於いて後者である。

フレミングの実験が思った通りに終わっていたら、ペニシリンは見つからなかっただろう。
マクスウェルの方程式が古典物理の通りのものだったら、相対性理論にたどり着くのはもっと遅れただろう。

予定通り、思い通りでないからこそ得られる幸運というのがきっとあるはずだ。

子供が思い通りにならないから虐待する、電車が予定通りでないので暴れる、相手の対応が予想と違うのでキレる。そういう話を頻繁に聞くようになってしまったが、そもそも世の中に思い通りになるものってそんなにない。首だって自由に動くと見せかけて、左右90度くらいしか動かない。3回転とかはしない。思い通りになるものなんて何もないといって差し支えないのではなかろうか。

だから、思い通りにならないから腹を立てるのではなく、思い通りにいったら素晴らしいと思うべきだ。JAXAの衛星「はやぶさ」の帰還を揶揄する論調を見た。「失敗なのに感動仕立てにしやがって」と。自動車ですら設計通りにいかないことがあるのに、宇宙船なら尚更だろう。着々と帰ってきているだけでも「思い通り」。素晴らしいと考えて良い。だって、理屈の上では上手く行くという「思いこみ」を実行しているわけで、上手く行く根拠はその「思いこみ」にしかないのだ。一種の実験。実験なのだから、意図しない結果があってもおかしくない。

都市化にともなって次々産み出された都市型思考の人間はこういうことを理解してくれない。予想どおりにいったのは当たり前でも何でもなくて、上手くいっただけのことですよ。

意図しない会話から意図しない動画に出くわすことになり、意図しない一言に出会って、実に幸福を堪能しました。思い通りにしか物事が進まないのなら、この幸福はなかった。

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