彼の主張はこうだ。反対されているのだから反対に理由もあるだろうからやめればいい。捕鯨は必要とは言えない。
私は反論した。理由はあるだろうが、それが正当な論拠に拠ったものではなく、相手に損害を与え、己のみが利益を得る単なる言いがかりであること。必要がないからやめればいいというのは、凡そ文化的な主張ではないということ。
前者は措くとして、必要がないからやめればいいと言うのは危うい。
たとえば、だ。私が「お前にそんな彼女(カミさん)は合わないから別れろ。彼女も嫌がっている。縁を切れ。」といきなりに言えばどうだろう。そういう兆候があれば別だろうが、だいたいは色をなして反論されるに違いない。
そもそも必要という概念、および、必要でないという概念自体、恣意的に用いられすぎだ。両方とも特定の条件下のみで用いることができるというべきだ。
人間には酸素が必要だ。ただし、死人にはもはや必要ない。肺炎の患者には酸素ボンベの酸素が必要だろう。植物は自ら作れるので、必要は必要だが植物は自ら作れるのでわざわざ与える必要はない。
行倒れ寸前の家出人は盗みをしてでも食料を手に入れる必要があるかも知れないが、行倒れ寸前の家出人であってもお金を持っていれば食料を盗む必要性に欠ける。
捕鯨は必要か。これも条件を設定して回答する必要がある。まず一つに、食料として。
食料としてみるだけならば必要はない。第一、私はここ数ヶ月クジラを食べていないが、健康を害してはいないし、当然飢えてもいない。クジラを食べなくとも死にはしない。
次に、工作材料としてのクジラを考える。詳しくはないのだが人形浄瑠璃の人形などではクジラのヒゲが重要らしい。代用の素材は簡単には手に入らないだろう。いくら科学が発達したとはいえ、今でもバイクレースでレーサーが着用するスーツは牛革製だ。吸湿性に優れた素材なら綿だろうし、あるいは羊毛だろう。生物素材が人工素材にかなわないことはいくらでもある。でも、浄瑠璃の人形を作らなければ済む話だ。必要だとは言えない。
次に、文化や技術の媒体としてのクジラだ。先述の人形浄瑠璃の人形。つくりかたが忘れ去られれば再度製法を発見することは至難を極める。調理法も失われるだろう。将来クジラを捕って食わねばならないような時代になったとき、その知恵があるとないとでは当然暮らしは異なる。でも、せいぜいマズいくらいであって、食えないわけじゃない。必要だとは言えない。
必要ないのだ。クジラなんて必要ない。食う必要もないし、素材として取る必要もない。代わりはいくらでもあるだろう。
では、私があなたにこう言ったらどうだろう。捕鯨が必要ないという主張が通るなら、私が次の通りに言ったら受け入れてもらわねば困るのだ。だから、必要でないというのを論拠に今あることをやめるということには、非常に慎重であるべきなのだ。
「死ね。お前なんて必ずしも人類に必要な人間だとは言えない。代わりはいくらでもいる。死ね。」
1 件のコメント:
バカ過ぎワロタ
大学に言って論文の勉強してこいよ
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