2010-05-03

演繹と帰納

インターネットはサービスではなくて、地球だと考えている。
インターネットの匿名性がどうのこうの言われることがあるが、実社会だって同じだ。同じホテルの隣室の客だって、名前は知らん。違法かどうかは別にして、宿帳に本名を書いているかどうかも分からない。しかし、あしあとを辿ることはできるかも知れない。
ネットだって実社会と変わりはない。

以下、敬称略

勝間 vs ひろゆき 1/3
http://www.youtube.com/watch?v=gqduJqJuQUs

勝間 vs ひろゆき 2/3
http://www.youtube.com/watch?v=kyxMpFuInSk

勝間 vs ひろゆき 3/3
http://www.youtube.com/watch?v=uwlKyWP1n2g

勝間(以下K)「どうやってインターネットの中である程度のルールをもって確保するような環境を作りたいかということ」
ひろゆき(以下ひ)「それは教育じゃないですか? 人がどう考えるかであって、別にサービスの提供者がやることではない」
K「まさしくそこですよそこ」
ひ「じゃ、個々の人間がどうするかってことをサービスの提供者の責任にしているのかってことが僕は分からない」
K「そこですよね。そこが私とひろゆきさんの大きな、多分、議論の分かれ目で、私はある程度サービスの提供の場を作ったときには、そこのルールを規定しないと、荒れてしまうと思ってるんですよ」
ひ「そ、荒れるってどういう意味ですか?」
K「実際にじゃ、2ちゃんねるで非常に有益なスレッドもあっておもしろい議論もあれば、まさしくその、なんていうんでしょ、鬱憤晴らしのための、批判であるとか揚げ足取りみたいな、スレッドもたくさんありますよね? それは正しいですか認識として?」
ひ「社会ってそんなもんじゃないですか。居酒屋とか行ったらみんなそんな話してるじゃないですか」

1/3の冒頭だけ抜き出したけど、自分で観察して得た事実から出発しているか、望む姿から出発しているかの違いはここで分かる。

web上の人格とリアルの人格とを紐づけるコストの話がこのあと出てくるが、これも破綻している。だって、コンビニでもの買うときに名乗らないでしょw 高度に発達・細分化の進んだ世界は、反復継続して接触する前提がない限り、匿名だ。
「やまだたろう」と「ななし」の話も、仮に僕がたちばなせいいちではなく「かつまかずよ」とな乗ったらどうかという話だ。もうこの時点で匿名なのだ。名前というのは所詮「識別記号」であって、特に区別する必要がなければなくてよい。名乗ろうとも名乗らずとも結局IPを調べに行くのならば名前なんてあってもなくても良い。

だれも炊飯器の中の米の全てに別々の符号を割り振ったりしない。名前を要求しない。それがたとえば特定の粒だけ見る確度によって色が変わるとか、1粒60kgあるとか、明らかに識別すべき事情があって初めて識別すべきものになる。逆に言うと、あっちが名乗っても識別の必要がなければどうでもいい。

識別すべき必要の有無があるかないか、名乗れと言う人間は的を持てと言うようなものだ。ネットの顕名化論者は一対多ではなく1to1でやろうと言っているだけのこと。でもこの1to1がくせ者で、あっちは既に信者が付いているので実質多数で1人をタコ殴りにすることになる。匿名が卑怯かどうかというには、まずこの点につき考察する必要がある。
K「ひろゆきさんと私に多分ですね、価値観というかポリシーのの違いがあって、それに対して何か議論を、こう、2人で戦わせようとすると、お互いに自分のフィールドに逃げてしまって、で、そのたとえ話が始まって…」
価値観やポリシーが一緒なら「議論」にはならない。「そうですね「そうですね」って、わらっていいとも状態にしかならない。
対話はあり得るだろうけど。
でも、対話しようという雰囲気を僕は感じ取れなかった。僕でない人は「いや、そんなことないよ」というかも知れないけど、もしそういうならちょっとそれを言うのは止して置いた方がいい。と思う。

CM開け冒頭までとりあえず非随意腹筋運動しながら見ると、自分の敷いたレールに乗ってもらいたい勝間とそのレールが安全か破壊検査をするひろゆきとのギャップが酷いのは確定する。というか、どうやっても乗ってもらえてないのであきらめてますが。

ひ「意)老人はカネ持ってるんだから起業して若者雇えばいいじゃないですか」
これもその通りで、老人がベンチャーキャピタルになるとかいうリスクもなくて、基本的に安定したいい場所にいる人が「若者は起業しろ」といっている。この20年間で多くの若者はリスクを取ることができないと学習している。公務員人気なんてその最たるものだ。だって、1年後ご飯食べられないのは誰だっていやだろう。若者は少なくともその蓄えはない。ならば、1年後もご飯を食べる余裕がある層が余りを活用すべきだ。「俺は倉の米出さないけど、お前のとこの畑から米出してこい」といわれて稲刈りして米を出すのはよっぽどのお人好しか、心理的強制がはたらいているかのどちらかだ。

ひろゆきは明確に、かつ複数回「起業したければすればいい」といっている。対偶は、「起業しないのはしたくないからだ」となるが、なぜ経験もカネもある老人がしないものを、どちらもない若者がしなくてはならないのか。カネ出してくれるの? 老人の皆さん。
K「若い人たちが起業する自由が減ってきている」
減ってきてるのは自由ではなく意欲か、あるいは資力か、そういう類のものでしょう。実際のところ、ソフトウェアの開発能力があるような人はつくっている。これは資力(ソフトウェアという無形財産)が既にあって、それに全生活を依存しない収入も別にあるからだろう。なければちょっとできるようなものではない。

日本で企業の新陳代謝がないという勝間の主張に対して、ひろゆきは「大企業が優秀だから」と言った。この結論は僕にはなかった。
イノベーションと陳腐化した産業の切り捨てという「選択と集中」の経営戦略の中にあって、たとえば1から10の事業部があって、「第1事業部は陳腐化したので第11事業部を立ち上げ、新規事業をやります」というような新陳代謝はあり得るかというイメージは持っていた。
たしかに、新製品が次々と出て、旧製品がなくなっていくというのは、森で言えば生長しなくなった木が枯れて、新たな芽が出ているということだ。これを産業に置き換えれば、消滅と発生成長とが大企業の中で両方ともあるわけで、別にこの両方が別の会社でなければいけないなんてことはだれも言っていない。

幸福度の話も抱腹絶倒ものでした。というより、日本人はいつからこんなに浅ましくなったのだろうかということを考えるに至った点で非常に有益でした。江戸時代は日照りや洪水、冷害などで相当の割合の国民が死んだでしょう。
今考えると、平成の米騒動で大量に餓死者が出たとは聞かないし(最近餓死者がでてもそれは似たようなちょっと違う理由です。)、洪水でも何万人とは死なないし、阪神淡路大震災でも1万人死んでない。江戸時代の感覚だったら10段階評価で10付くんじゃないかな。
ひょっとしたら、幸福度の高低は様々なファクターに影響され、そして、ファクターが多すぎて、正確な調査ができてないのではないだろうか。むかし「所さんの笑ってコラえて」に出ていた婆さまが「盆暮れに孫の顔を見られるだけで幸せ」といっていたのを非常に良く、心揺さぶられながら見た覚えがある。幸福度の高低というより、単に、どれだけストレスに晒されているかということと、日本人は欲張りなだけという話なのかも知れない。


で、勝間の「べき」論と、ひろゆきの「そういうもんでしょ」論。西洋の自然観と東洋の自然観とに似ていると感じた。前者は征服主義、後者は共存主義と言い換えられるかも知れない。

前者は理想があって、それ以外は理想ではないという見方で、理想から外れるものの存在を許してない。これに対して、後者は相当ユルくて、理想とほど遠いあってはいけない状態というのがあって、それでなければ合格点でいいじゃないという感じだろうか。「我知足」というか。

で、後者、ひろゆきの価値観が排斥される一因には、思考パターンの西洋化(キリスト教圏化)があるように感じる。規律から世界を作るのと、世界の成り立ちから規律を抽出するのと。演繹と帰納でいいんだっけ。

僕はここに壁があるけどとりあえず壁があるよね、というところからスタートするもので、壁があってはいけないというテーゼからは出発しないので、今回の対談を見る限りでは明確にひろゆきの考えに共感しました。


5/5日追記
勝間和代ブログ 「2chはIPの開示に積極的であるというひろゆきさんの注目発言について」を高木浩光氏が検証したまとめ

実名推進論者はインターネットを書籍だと思ってる。一方、それ以外の多くは社会そのものだと思ってる。だか らずれる。
http://twitter.com/S_T/status/13372852989

名前を出して活動している人の多くは、インターネットを道具としてしか見てないんですね。でも僕は違ってて、インターネットはどこでもドアだと思ってる。どこでもドアで出て行って、名乗らずに(そもそも対面もしてないで)一言言って、帰る。それだけ。だから、顕名でする行為ではない。たぶんひろゆきは僕の考えに近い(はず)。インターネットを道具ではなく社会だと思っている。だから、ああいうふうにずれる。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんにちは、
インターネットは「どこでもドア」ね。確かにそうかも。と思ったのでコメント残して行きます。