2010-04-17

人の神経を逆撫でする思考、ファンにする思考

「素直になれなくて」とかいうドラマが始まったそうである。なお、私はノンフィクションばかりに興味が行く人なので、フィクションはまず見ない。見るとしても、人の極限状態の心理を描くサスペンスものがせいぜい。

とあるTwitter ドラマ脚本家の本音

で、その脚本家がやらかした。批判をするのは簡単で単純でかつ非生産的、言い換えると時間をカスにする行為なので、可能な限り発展的に創造的に分析しつつ、批判があったときに如何にそれを的確に捌くかということを考えたい。

まず、何をしくじったかどうかという点は措き、批判があったという事実はとりあえず認めるべきである。論理がどうであれ、不快に感じるということは肯んぜざることなき事実であるからだ。それを相手の狭量さなどで理由付けをしてしまうのは下策である。TOYOTAがプリウスのブレーキ騒動でやったのと同じ手口だ。

TOYOTAの場合は「フィーリングの問題」という一言で片づけさせてしまった。これはこれでエンジニアの理解としては正しいのだろう。しかし、「問題」という単語を用いることで暗に「そう感じる方が悪い」というニュアンスを出してしまったことがひとつの問題、もう一つは「フィーリング」というどうしようもないものを持ちだして歩み寄る態度を見せようとしなかったことが問題だった。「動作自体は我々の想定通りであって、ここに問題はなかったのですが、今までのクルマとのフィーリングの違いについてご理解いただくことについて手を抜いたため、不安に感じさせてしまった」と言っておけば良かった。

さて、不満や反論が出てきた場合は、相手が仇敵であって、論破のみが利益なら反撃すべきだ。しかし、通常、まずはそういう意見の存在を受け入れなくてはいけない。速攻で反撃に出るのはよほどの場合を除いては下策だからだ。ここで気をつけるのは、意見そのものを丸飲みすることは必要ではないということだ。ここで受け入れるのはそういう意見が存在するということ、そして、そういう意見が存在するからにはそれなりの理由があるのだろうと気付くことだ。あとはここを深掘りすることで関係が好転するような解決策へと向かうことができるようになる。

社会においては、意見は対立しているけれども相互に利益を受ける関係というのは非常に多い。TOYOTAとユーザーは意見は対立したが、持ちつ持たれつの関係であることに異論は無かろう。脚本家と視聴者の間にあっても、それは同じはずだ。おもしろいものを提供し、それを視聴者が楽しむことによって、脚本家も良い評価を受ける。そういう共生関係にあっては、先ずは相手の意見の存在を受容することが先決である。

次に、失敗を正当化してはいけないということだ。失敗は失敗。次は上手くやる。それだけでいい。弁解して正当化することは通常火に油を注ぐという結果を招く。

3つめ。「おまえもな」「お前が言うな」は反撃でやってはいけない。なぜなら、これも自己正当化だからだ。もう一つ、批判反論は多くの場合上からの目線でなされる。これに対して「分かってないっていうけど、あんたも分かってるっていうの?」は火にガソリン。なぜなら、その視点の更に上を行こうとする行為であって、批判や指摘をした人の自尊心を損ねるからだ。反論をするのであれば、自分の視点がどこにあるかを真剣に探りつつしなければいけない。また、有名人に属する人間は、普通に接しても傲慢だと取られやすい。この点についてきちんと補正を施さなければいけない。

「別に、ツイッターってそんな大したもんじゃないでしょ?人のかたわらに、ぼくを使って、便利に。ってある、それくらいのもんでしょってことが言い たいわけです。」という文には2つマズいところがある。4つめは、相手が評価しているものを貶すなということ。5つめは、理解していないものを貶すなということ。非難する側には「全部は分からんが、どうやらツイッターは相当の可能性がある」と思っているかどうかは知らないが、とにかく評価はしている。それを貶すのは宣戦布告である。だから、してはいけない。分かってないものを貶すのもやぶ蛇だ。「分かってないのに批判するな」といわれるに決まっているからだ。分からないのに貶して良いのは、解説がわかりにくいときにその解説の拙さを批判するときに限る。

「そんなことはないんだよ。そういう悲しい一面的な考え方って、人生がつまらないじゃないですか?」も失言だ。「ない」というネガティブワードを用いた上で、「悲しい」「一面的」「人生がつまらない」と、批判した人間の人格を攻撃した。愚策である。説得をするつもりであれば最もやってはいけないことだ。言い換えるのであれば、「ご指摘のように取られたのであれば残念です。可能ならばアッパーに、複数の考え方で捉えていただければ良かったし、そうできなかった点に至らなさを感じています」とでもするのが良かった。相手を攻撃してはいけないのだ。相手に責任転嫁をしたいときにこそ、相手の攻撃は自分の感じ方として、相手にいいたいことは願望として、願望というわがままは自分の力不足として、相手に言葉を投げつけるのではなく、相手にくみ取らせるという手法を使うべきだった。6個目と7個目の失策である。

失望すべきは、物書きが自分の書いたことに責任感を全く持っていなかったということだ。ツイッターを話題にしたドラマという時点で、話題のものの名前だけうまいこと便乗してメシウマを目論んでいるという風に多くの人間が感じたはずなのだ。果たしてそうだった。こういうふうに感じさせてしまった時点で相当のディスアドバンテージだったのだ。騒ぎを好まないのであれば不用意な発言を避けるべきだし、即座に失言を認めておけばここまで注目を浴びることはなかっただろう。


フィクションには興味はないのだが、やりとり事態はノンフィクションでおもしろかったので、危機管理という視点から書いてみました。

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